FC2ブログ

スポンサーサイト

.-- -- スポンサー広告 comment(-) trackback(-)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

大地の徳

.30 2012 読書 comment(0) trackback(0)
大地の徳
 偉くなることは、必ずしも富士山のように仰(あお)がれるようになるためではない。なるほど富士山は立派だけれども、それよりも何よりも立派なものは大地である。この大地は万山を載(の)せて一向に重しとしない。限りなき谷やら川やらを載せて敢(あ)えていとわない。常に平々坦々(たんたん)としておる。この大地こそ本当の徳である。われわれもこの大地のような徳を持たなければならぬ。大地のような人間にならなければならぬ。

大学云
両 富潤屋
潤 徳潤身
『大学』の中の言葉。「富は家庭を豊かにし、徳は心身を豊かにする」の意。
スポンサーサイト

郷原信郎著『検察崩壊 失われた正義』を読んで

.12 2012 読書 comment(0) trackback(0)
検察はもはや組織として腐りきっていることが、陸山会事件の捜査で顕わになった。
これまでの、鈴木宗男事件や村木事件では、一部検事の暴走として事件を無理やり
でっち上げ、別件で起訴すると脅してウソの調書に署名させるという冤罪を生んできた。
例えば鈴木宗男の事件では、当初北方領土に対する援助にからむ収賄事件と見立てたが、
証拠が出ないとなると、建設会社や造材会社の社長を引っ張って、賄賂を贈ったという調書を
認めないと、談合で摘発するぞと脅して無理やり署名させたりしてきた。

今回の陸山会の事件は、どうも現場の検事の暴走というよりも、もっと組織の上のほうからの
意向が働いているように感じられる。
偽の捜査報告書を書いた(書かされた?)田代検事の不起訴はなんとしてもおかしい。

最高裁事務総局・最高検・高検・東京地検特捜と繋がっているように感じられるのは
私だけだろうか?

そしてそれらの意志はどこから出てきて、あうんの呼吸で現場に伝わる出世を狙う検察官僚の
系譜に繋がっているように思える。

こんな組織を野放しにしては、日本は法事国家といえないほど、検察という組織に対する信頼は
失われてしまった。

田代検事を不起訴にする最高検の調査に、異議を唱え指揮権を発動しようとした小川敏夫元法務大臣を
6ヶ月で辞任に追い込み、後任の前滝法務大臣は知らぬが仏で異議を唱えなかったが知りえたものは
3ヶ月で首を切った野田総理ももはや黒い闇権力に取り込まれているのだろう。

こうして日本の戦後史を、政治裁判史録的にみると、日本を陰で操る闇権力があるのだろう。
だから、その意向にそぐわない政治家を葬り去ってきたが、今やネット社会となり、あらゆる情報が
瞬時に流れ一般大衆に知れ渡る時代となり、こうした闇権力の存在が徐々に暴露されるだろう。

そういう意味で、検察を建て直し法事国家としての番人になるよう、著者である郷原信郎氏の活躍を
期待するものである。

古都育朗

鈴木宗男著『政治の修羅場』(文春新書)

.05 2012 読書 comment(0) trackback(0)
鈴木宗男著『政治の修羅場』(文春新書)が売れているらしい。
買って読んでみた。
各所に宗男節でマスコミが伝えない政界の裏話がでてきて面白い。

ムネオ流「政治のノウハウ」
●角栄から学ぶ「一本の電話でひとの心を摑む」
●「情の人」中川一郎が手本「役人とどう付き合うか」
●育ての親・金丸信の教え。「人間関係」を大事にせえ
●小沢の正体―いつの時代も「壊し屋」が必要
●プーチン在任中こそ「北方領土返還」のチャンス
●「宿敵」眞紀子と小泉が日本の政治をダメにした
●刑務所で悟った三つのこと―「信念を貫く」「仲間の支え」「目に見えない力で生かされている」
●人生は思い通りにいかない、死ぬまで闘いだ!

安岡正篤著「論語に学ぶ」を読んで

.22 2012 読書 comment(0) trackback(0)
論語読みの論語知らず
 其の一-本当に読みたい人のために
 私の体験

 「論語読みの論語知らず」という言葉は人を非難するようなことに使われるのですけれども、要は、自分がわかっておる心算(つもり)でも案外わかっておらぬものだ、ということを悟ることが更に大事なのであります。然(しか)しこれは論語に限らない、凡(およ)そ学問・求道というようなものはみなそうであります。その真義は限り無く深いものである。

 『論語』-綸語・輪語・円珠経
 論語は別名を綸(りん)語(ご)と言い、また輪語、あるいは円珠経とも言うております。
 論語の参考書「論語義疏(ぎそ)」に、漢代の鄭(じょう)玄(げん)という大学者が、論語を以って世務を経綸(けいりん)することができる書物だと言ったところから、綸語という語が出てきたとし、またその説くところは、円転極まりなきこと車輪の如しというので、輪語と言うのだと注釈しています。
 更に円珠経については鏡を引用して、鏡はいくら大きくても一面しか照らさないが、珠(しゆ)(たま)は一寸四方の小さいものでも、上下四方を照らす。諸家の学説は鏡の如きもので、一面を照らすが四方を照らすことはできない。そこへゆくと論語は正に円(まどか)なる珠と同じで、上下四方、円通極まりなきものである。というところから円珠経と言うのだと述べております。
 理論・理屈というようなものは、何か為にするところがあればいくらでも立てることができる。
学問とか、思想とか、いうものはそれをただ知識的・論理的に整えただけに過ぎない。民族・国家・人類といったものを実体として考える時には、所謂(いわゆる)知識や概念・論理の操作ではどうにもならない。
 もっと普遍的・実践的で、変化に富んだ円転自在のものでなければ、到底真理ということができない。

 時の真意について
 學而時習之。不亦説乎。
 学んで之を時習す。(学んで時に之を習ふ)亦説(よろこ)ばしからずや。
時を時々ではなくて、「その時代、その時勢に応じて」と訳し、時習(じしゅう)と音で読むのが一番良い。

 省の真意について
 吾日三省吾身。
吾れ日に吾が身を三省す。(吾れ日に三たび吾が身を省みる)
三はさんと読み、常にとか、しばしばという意味です。
この省の字をつくづく味わってみると、かえりみてはぶくことの一番根元的なものは自己であるから、人間の存在そのもの、その生活、また従って政治にしろ、道徳にしろ、人間に関する一切はこの一省字に尽きると申して宜しい。省するということは難しいものです。智慧(ちえ)と経験とが一致して初めて立派にできることである。
われわれの精神・意欲の中には、無闇にのさばる横着なものがあるかと思うと、一方では萎縮するものがある。そこでそのわがままな欲望を抑制・助長するために理性というものがあって、良心の調和を計っておるのである。これが所謂時中というものであり、三省というものです。それによって人格が存在することができる。
 そこで大衆というものは放っておくと、みな勝手放題のことをやって混乱に陥るので、人間・大衆・社会・民族・国家というものは如何になければならぬか、ということを大衆に代わって、あるいは大衆を通じて、これを抑制し、指導・助長してゆくものが必要になってくる。その省の字に該当するのが政治であり、政治家であり、またそれがつくる役人・官庁である。そこで昔から官庁や役所に省の字をつけて、外務省・大蔵省などというわけであります。
 ところが役人というものは兎角(とかく)省することを忘れて、折角のしょう(、、、)に濁点ををうって擾(じょう)、煩雑にしてしまう。そうなると政治が乱れる。

 利について
 放於利 而行多怨。
 利に放(よ)って行へば怨(うらみ)多し。
 皆利を追って暮らしておるが、利を求めて却って利を失い、利によって誤られて、際限なく怨みをつくっておる。それは利とは何ぞやということを知らぬからである。利の本は義である、ということを知らぬからである。従って本当に利を得んとすれば、如何にすることが義かという根本に立ち返っらなければならない。

 敏について
 君子欲訥於言而敏於行。
 君子は言に訥(とつ)にして、行に敏ならんことを欲す。
敏とはフルに頭を使うことである。大脳を使えば自然に全意識を使うことになる。そうしてこの人間、および世界の現実に深くはいってゆけば、どうしてもわれわれは理想というもの、真理というもの、またその模範・典型というものに参ずるようになる。そのもっとも典型的なものは理想像というものです。

 夢に周公を見る
 甚矣吾衰也。久矣吾不復夢見周公也。
 甚だし吾が衰えたるや。久し吾れ復(ま)た夢に周公を見ざるなり。
 ああ自分は衰えたなあ、もう夢に周公を見なくなって随分になる、という孔子の慨歎であります。周公とは、周の国を興して、支那古代に於ける一つの理想国家を創造した周公旦のことであります。
 人間は熱烈な理想に燃えておれば、自ずから理想像を抱く様になるものでありまして、これは実に人間らしい尊いことである。それがなくなるというのは、要するに単なる情欲とか、とりとめのない仕事に追われてしまうからで、本当に真剣な生活をし、充実した生き方をしておれば、いろいろと具体的な目標、理想像というものがある筈であります。

 由らしむと知らしむ
 民可使由之。不可使知之。
 民は之を(或いはに(、))由らしむべし。之を知らしむべからず。
 民衆というものは、常に自分に都合の良い、その場その場のことばかりを求めておるので、本当のことだとか、十年・百年の計だとかいう様なことはわからない。そこで兎に角訳はわからぬが、あの人のすることだから俺はついて行くのだ、という風に民衆が尊敬し、信頼するようにせよということで、由らしむべしの、べしは命令のべしであるが、知らしむべしの方は可能・不可能のべしである。

 与に―学ぶこと・道を適くこと・立つこと・権ること
 可余興共學未可與適道。可與適道未可與立。可與立未可予權。(子罕(しかん))
 与(とも)に共に学ぶべし、未だ与に道を適(ゆ)くべからず。与に道を適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権(はか)るべからず。
一緒に学問をすることはできるけれども、一緒に道を行くことはなかなかできるものではない。競争するものもおれば、落伍するものもおる。とっとと自分だけ先に行くものが折るかと思うと、遅れるものがおる。又中にはあっちへ行こうというものもおるし、反対にこっちへ行くのだというのもおって、なかなか一緒に道を行く事はできない。殊(こと)に人生ともなれば尚更のことである。
 孔子は、まだ共に立つことはできるけれども、「与(とも)に権(はか)るべからず」と言われる。権は秤(はかり)の分銅であります。分銅というものはご承知のように、あっちへやり、こっちへやることによって、正しいところにぴたりと落ち着けるものですから、権をはかる(、、、)と読む。物事を正しく決する手段が権であります。

 変について
 齋一變於魯。魯一變至於道。
 斉一変せば魯に至らん。魯一変せば道に至らん。
斉は権力支配の、功利一辺倒の国家であり、それに対し魯は文化国家である。功利というものは行き詰まり易く、怨みを結ぶ易いものであるが、然しそういう国でも一変すれば、本当の文化を求める様になる。但し文化というものは往々にして頽廃(たいはい)・堕落する。だからその弱点を救うためには一変しなければならない。そうすれば漸(ようや)く本当の道に至ることができる。

 命と礼と言
 不知命無以爲君子也。不知禮無以立也。不知言無以知人也。
 命を知らずんば以て君子たる無きなり。礼を知らずんば以て立つ無きなり。言を知らずんば以て人を知る無きなり。
「言を知らずんば以て人を知る無きなり」の「言」は今日で言うと所謂思想・言論でありまして、その思想・言論というものの本当の事がわからなければ、人を知ることができない、人間の世界がわからないと言うのです。マルクス・レーニン主義であろうが、民主主義・自由主義であろうが、単なるイデオロギーだけでは人生は救われない、本当の文明は栄えない、ということがはっきりと論述されるようになってきた。
 孟子はその「言」を解して四つを挙げておる。
詖辞(ひじ) 偏(かたよ)った言葉。概念的・論理的に自分に都合の好いようにつける理屈。
淫辞(いんじ) みだりがわしい言葉。淫は物事に執念深く、耽溺(たんでき)すること。
邪辞 よこしまな言葉。よこしまな心からつける理屈。
遁辞(とんじ) 逃げ口上。
 現代を最もよく把握し、最も正しい結論を得ようと思えば、論語で十分である、と言うても決して過言ではありません。
 そこでこの時代、この人類は如何にすれば救われるかとなると、やはり学ばなければならない。正に論語に言う通り「学ぶに如(し)かざるなり」であります。終日、物を思えども何にもならん、お互い大いに学ぼうではないか。

 其の二-活学としての論語

 人生万事縁である
 日本で民間に一番普及している仏は何かと言えば、観音菩薩や、阿弥陀如来よりも、地蔵菩薩なのです。何故地蔵菩薩がかくも普及したかということについては、その大きな功徳の一つに、地蔵さまを信仰すると、多逢(たほう)勝因(しょういん)と言うて、そのお蔭、御縁で、善因・善果を得る。悪縁は悪因になって悪果になる。地蔵さまを信仰すれば勝れた善い因・縁・果に恵まれる。これが一つの理由になって、国民の間に広く普及しておるのである。
 私は、一度縁あって相識った人のためには、できるだけ誠を尽くすことを心掛けてきた。

 大沢勘大夫の活学問
 酒井藩は三輪執(みわしつ)斎(さい)先生等の感化で、学問が大層盛んになり、藩侯自らも進んで学を講ずる。又藩士の中にも、大沢勘大夫という奉行のような立派な学問求道の士もありました。その大沢勘大夫と三輪執(みわしつ)斎(さい)先生に、或る日藩侯からお召しがあって、“今日は勉強会をやりたいと思うから、朱子の「大学章句序」の講義をして欲しい”と言う。勘大夫が“私どもが講義をお耳に入れたところで、別にどうということもありませんから、一つ、殿が私共に講義してお聞かせ下さっては如何でしょうか”とお答えし、“殿が藩を治められる上に於いて、どんなにお聞き誤りがなかったか、或いはどんなに物事の見誤りがなかったか、といった殿ご自身についての講釈を賜りたいのです”と。

 われわれは本当に読んでおるか
 本当の学問というものは、それを読んで、自分は聞き誤っていなかったか、見誤っていなかったか、という風に直ちに自分の問題にしてゆくのです。そこに気がついてこそ初めて活きた学問となる。
 『論語』にしても、本当に活きた学問として論語を読んだかどうか、殆どみな、「論語読みの論語知らず」に終わっておるのではないか。

 暁―あきらか・さとる
 暁という字は、あきらかという字であり、さとるという字である。然し同じ明らかと言っても、日月並んで照らす明ではない。暁のあきらかは、夜の暗闇が白々と明けて、物のあやめ(・・・)・けじめ(・・・)が見えてくる、さわやかな中に、心が澄み、頭が冴えて、物のすがたがあきらかになってくる、という意味である。従ってそれだけ物事がわかる。だからさとる(・・・)である。

 亮-高に通ずる-たかい・あきらか
 諸葛孔明は名を亮(りょう)と申します。亮はたかい(・・・)という字で、高の字の下の口(・)をとって人(・)を入れた文字である。即ち高い所へ上る人間ということである。高所へ上れば、見晴らしがよく、見通しが利く。つまりそれだけわかる、あきらかになる。一般の大衆と違って、高い見識・心境に達した人は、人間・世の中がよくわかる。そういう意味のあきらか(・・・・)という字が亮である。諸葛孔明は正に亮の名の如き人でありました。

 相-見通しが利く・たすける
 相(・)という字がある。いろいろ説もある。木を見わけるとも説かれてあるが、それよりも、木の上に人間が登ると、先が見える、見通しが聞くという方が面白い。そこで国家・民族十年・百年の前途を見通して、政策を立てねばならない。その代表が大臣である。だから大臣のことを相(・)と言う。従って文字本来から言うならば、大臣は国家・民族のために十年・百年の大計を立てるだけの見識を持った、餘程見通しの利く人でなければならぬ筈であります。

 了-あきらか・おわる
 然し同じさとる(・・・)でも、暁と違ってもう一つ皮肉な“さとる”がある。それは了という文字です。
弘法大師の詩に
 「閑林獨坐草堂暁      しずかな林の中、独り坐っている草堂の夜明け
  三寶之聲聞一鳥。     仏・法・僧と鳴く鳥の声を聞く
一鳥有聲人有心。     鳥の啼き声に仏の教えを聴く人の心
性心雲水倶(とも)了了。」    人の心と自然と自ら通じて明らか
という有名な七言絶句がある。この詩の最後に了了と言って了の字が使われてある。これはあきらか(・・・・)という字である。と同時におわる(・・・)という字である。
あきらかになった時はすべてがおわる時である。

 悟-口をつつしんで-さとる
 もう一つ、さとる(・・・)という意味の字に悟という字がある。忄偏に吾(われ)と書いて、どうしてさとる(・・・)という意味になるか。吾は口に五本の指を押し当てた象(かたち)であるという解釈もあるが、よく調べてみるとそうではなくて、五は乂(音・がい、かる意)で、草をかる艾と同義の文字である。そこで口をかるとは、餘計なことを言わぬ、つまらぬ物を食わぬということになる。言い換えればこれは、口にかぎ(・・)をして、口をつつしむということです。
 吾という字をさかのぼれば、そういう風に口をつつしめというところから出ておることがわかる。従って悟も、結局は自分をどうするかということになるわけです。

 孝-老少の連続・統一
 孝という字は、言うまでもなく老、先輩・長者に子を合わせたものであります。ドラッカーのThe age of discontinuity(『断絶の時代』)という書物から出た言葉でありますが、本当は疎隔(そかく)と訳すべきであります。この疎隔・断絶に全く反対の、連続・統一を表す文字がこの孝という字です。老即ち先輩・長者と、子、即ち後進の若い者とが断絶することなく、連続して一つに結ぶのである。そこから孝という字ができ上がった。そして先輩・長者の一番代表的なものは親であるから、親子の連続・統一を表すことに主として用いられるようになったのである。人間が親子・老少、先輩・後輩の連続・統一を失って疎隔・断絶すると、どうなるか。個人・民族の繁栄は勿論(もちろん)のこと、国家・民族の進歩・発展もなくなってしまう。人間は進歩しようと思えば、統一がなければならない。
教育とは何ぞ雇えば、つまるところは先輩・後輩と長者・少者の連続・連結の役目をなすものでなければならない。

 孝と疾-連続と断絶
 孟武伯問孝。子曰、父母唯其疾之憂。
 孟(もう)武(ぶ)伯(はく)孝を問う。子曰く、父母は唯だ其の疾(しつ)を之憂ふ。
 孟(もう)武(ぶ)伯(はく)が孝とはどういうことですかと尋ねたところが、孔子の言うのには、「父母はただ子供の病気のことだけを心配する」、だから病気にならぬ様に心掛けねばならない、というのが従来からの一般の解釈です。それがあの『呂(りょ)氏(し)春秋(しゅんじゅう)』(禁塞)の注に、ちゃんと「争う」に同じ-即ち疾を解釈してあらそう(・・・・)と同意としておる。恐らく皆さんの中にもおられると思いますが、近頃の倅は事毎に反抗して、親の言うことを素直に聞かないので、随分悩んでおられる方が多い。疾を憂うとはそういうことを言っておるのです。
 そもそも宗教というものは、世俗間を浄(きよ)めて、民衆を正しい道に導く、即ち教化すべきものである。だから自ずから世俗間と離れておらなければいけない。
それを民衆と同じ世界へはいってきて、そうして民衆と同じ様に利益だとか、名誉だとか、権力・支配というようなものを要求するようになると、これは民衆と同列になって争うことになるわけで、そうなると必ずその教団は堕落する。
 いろいろな欲望の中で、一番深刻なものは権力・支配の欲望である。これはいつの時代、どこの世界に於ても変わらない。
 孝の次に論語を読んですぐ目につくのが、忠(・)という文字です。忠孝の二字は永遠の真理である。従って永遠に新しい。

 忠恕の道は徹底した人道主義
 子曰、參乎、吾道一貫之。 曾子曰、唯。 子出。 門人問曰、何謂也。 曾子曰、夫子之道、忠恕而巳矣。
子曰く、参や、吾が道は一以て之を貫く。 曾子曰く、唯(い)。子出づ。門人問ひて曰く、何の謂(いひ)ぞや。曾子曰く、夫子の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。
 貫はもとよりつらぬく(・・・・)でよいが、別の注を穿鑿(せんさく)すると、行う(・・)なりというのもある。吾が道は一以て之を貫(おこな)ふ、その方がよい。孔子が参、即ち曾子に「吾が道はただ一を以てこれを行う」と言われると、曾子は「はい」と答えた。まるで禅問答のようで、外(ほか)の門人たちには何のことかさっぱりわからない。
 そこでお師匠さんが出られた後で、「今のはどういう意味ですか」曾子に尋ねた。すると曾子は、「先生の道は忠恕だけである」と言う。
「忠」とは、中(ちゅう)する心である。「中」は、相対するものから次第に統一的なものに進歩向上してゆく働きを言う。忠とはそういう心である。中は論理学で言うと、丁度辨証法がこれの一つの応用である。つまり正反合と進んでゆくのが中である。
 人間の生活、長い歴史、文明も要するに中の経過であり、中史でありますが、そういう真心で努力しようとする気持ちが所謂忠である。だから日本語でこれをまめやか(・・・・)とも読む。本当の忠は無限の統一・進歩である。その忠は言い換えれば「恕」である。恕は如(・)プラス心(・)であるが、如の口は口(くち)ではなくて、領域・世界・本分である。これをごとし(・・・)と読むのは、天のごとし、実在・造化そのままという意味である。仏教ではにょ(・・)と呉音で読んで、最も普及した語となっておりますが、造化そのままであるから、従って仏(ほとけ)そのままである。
 又如はごとしと同時に、それと比較して接近する、しく、似るという字であり、ゆく、進行するという字でもある。宇宙・造化は絶えざる創造であり、変化であるからである。
 従ってこれは男では駄目で、どうしても女偏でなければならん。女性はどんな愚かでも子を生むが、男は如何なる英雄・哲人と雖(いえど)も生むことはできない。
この点だけは男は女にかなわない。だから女が子を生まなくなる、嫌がるというのは、自然の原則に反する。造化の理法・宇宙の真理に反する。自ら進んで女が子を生むのを嫌がるようになれば、その民族は当然衰退・衰滅する。
 それで如心、即ち恕は何故ゆるす(・・・)と読むか。造化の特徴は、第一に万物を包容して一物をも捨てない、と同時にこれを創造してゆく。この二つの特性がもっとも著しいものである。従って如心と書いたこの恕は。その第一の意義は“ゆする”である。本当にやさしい女は、両親で言えば、母は、いきなり子を裁くことをしない。一応子供をゆるす、包容する。そこへゆくと親父の方は違う。理性の分野が本領であるから、どんな可愛い子供に対しても、一応その理性に基づいて子供を裁く、批判する。これは両親の分擔(ぶんたん)・分業である。
 しかし恕はただゆるすのではなくて、造化の限り無く進歩向上するための包容であるから、どうしても忠を要する。従ってこれを結んで忠恕と言う。
 両方を対照的に言えば、忠は進行型でどんどん進んでゆく方の意味を建前とし、恕はゆるすという意味の方を建前とするから、忠一字だけでも、恕一字だけでも、時々使われておるけれども、一切を包容して、一切を進歩向上させてゆくのが大いなる造化の働きであるから、どうしても忠恕でなければならん。その忠恕が夫子道であると言う。これは言い換えれば徹底した人道主義であります。

 先ず自己を知れ・生の何たるかを知れ
 季路問事鬼神。 子曰、未能事人、焉能事鬼。 曰、敢問死。 曰、未知生、焉知死。
 季路、鬼神に事(つか)へんことを問ふ。子曰く、未だ人に事ふること能(あた)はず、焉(いづく)んぞ能く鬼に事へん。曰く、敢(あへ)て死を問ふ。曰く、未だ生を知らず、焉(いづく)んぞ死を知らん。
 これを大抵は、季路が鬼神に仕えることを孔子に尋ねたら、孔子は、「未だ人に仕えることもできないのに、どうして鬼神に仕えることができようか」と言われたので、敢えて死というものをどうお考えですかと訊くと、「未だ生を知らぬのに、どうして死がわかろうか」、と言われた、という風な簡単なものではない。
 「未だ生を知らず、焉(いづく)んぞ死を知らん」と言うが、それでは一体生とは何ぞや、死とは何ぞや。造化そのままの直接経験の世界、即ち如は、近頃流行の言葉で言えば実存というものは、これは生そのものであるが、その折角与えられておる生をわれわれは一体どれだけ知っておるか。
 生を本当に知ることは死を知る事に外ならない。生と死は連続した一連の問題であるから、生もろくろくわからぬ者に死などわかる筈がない。だから人生はおろか、自分のことさえまだ本当に考えてこともない人間が、死とは何ぞやというようなことを云々(うんぬん)しても始らない。それは観念の遊戯・概念の遊戯に過ぎん。だから「もっと自己の生そのものに徹せよ」、というのが孔子の考え方であります。
 「論語読みの論語知らず」という語は、世間の人間が利口そうな者を揶(から)かうだけのことではなくて、本当に考えると、全くこれは自分自身に言う言葉であったということが、わかればわかるほどわかる。ところが世間には、何もわからぬくせにわかった様な顔をして、わかったように思って、利口そうにしゃべったり、書いたりする者が無数におる。それがやれ思想だ評論だ、ジャーナリズムだタレントだ、というようなことで、わざわざ世の中を引っかきまわしておる。
 そういう利口ぶってのぼせ上がっておる、浅薄な思想家や評論家に冷水を浴びせるような行き方をしたのが、老子であり、老荘思想である。それに対しあくまでも諄々(じゅんじゅん)と説得するように進んで行ったのが孔孟の学問であります。
 老荘と孔孟は支那に於ける文化の二大本流であるが、わが神道の行き方は又これ等とは異なる。人間本然の世界をどこまでも汚さずに、下流に対する源泉の神秘を浄化して、それを保ってゆこうとするのが、日本の神道であります。

 いつの時代にもある佞人(ねいじん)
 佞という字は、仁+女とである。意味はなさけのある、まことのある女性から出る、優しい嬉しい言葉・意志の表現が佞というものである。本来は善い意味の語であります。
 子曰、巧言令色、鮮矣仁。
 子曰く、巧言令色、鮮(すくな)いかな仁。
 口先がうまくて、如何にも表面はよいが、中身がない、仁がない。これは表現が違うだけで、佞と同じことであります。
 顔淵問 為邦。子曰、行 夏之時、乗 殷之輅、 服周之冕、楽則韶舞、放鄭聲 遠佞人、鄭聲淫、佞人殆。
 顔淵、邦を為(おさ)むることを問ふ。子曰く、夏(か)の時を行ひ、殷(いん)の輅(ろ)に乗り、周の冕(べん)を服し、楽は則ち佞人韶(しょう)舞(ぶ)、鄭声(ていせい)を放ちて、佞人を遠ざけよ。鄭声は淫、佞人は殆(あや)ふし。
 顔淵が国の治め方を尋ねたら、孔子の言われるには、夏の暦を使い、殷の木の車(質素なもの)に乗り、周の冠をつけ、音楽は舜の韶の舞にかぎる。ここ迄はどうでも宜しい。問題はその後であります。即ち「鄭の音楽をやめて、口の上手な者を退けよ。鄭の音楽はみだらであり、口の上手な者は危険である」と言う。正に今日は鄭声・佞人の時代であります。これを何とか排除しないと、改めないと、世の中は救われない。
 言うまでもなく音楽というものは、人間の性情・ありのままを最もよく表すものであります。それだけに音楽を見れば、その時代の人間の考え方、世の中の有様がよくわかる。その音楽の元は声でありますが、これには又深い意味がある。
 軽薄な人は軽薄な声、重厚な人は重厚な声、素朴な人は素朴な声を出す。声を芸術的に養うと、声楽というものになりますが、しかし如何に上手になっても、その人も地声・声質は変わらない、どうにもならない。
 又音楽と言っても、古典では色々区別がありまして、『詩経』によると、特殊な専門家のものではなくて、一般民衆に広く普及するものを風(ふう)と言い、これに対して朝廷の正式の会合に使うのが雅(が)、中でも最も本格的なものを大雅(たいが)と言う。これを結んで風雅であります。風雅、殊に風を見れば、その民族、その時代の風潮がよくわかる。
 「鄭声は淫」と言うが、確かにその通りですね。なるほど節廻しはうまいが、実に野卑と言うか、低級軽薄と言うか、上っ調子で、修養だの、訓練だののできた、というようなものは全く感じられない。それだけに卑しい、みだらそのものです。正に鄭声は淫であります。
 時代の頽廃(たいはい)度を観察する上に非常に参考になる三つの基準がある。エロ・グロ・ナンセンスの三語であります。
 先ず頽廃現象の初めはエロでありまして、エロは人間の気力を麻痺させる。ところがまだ生命力が残っておると、いつかエロに反発する時期がくる。そうして何か強烈な刺激を要求するようになる。ところがもうすでに頽廃しておるのですから、到底健全な刺激には耐えられない。だから刺激は刺激でも変態的な刺激を要求するようになる。それがグロテスクというものであります。そうして更に進むと、今度はナンセンス、すべてが無意味ということになる。ナンセンスの次は破壊より外にはない。現代も周の時代もその点少しも異なるところがありません。
 ところが、そういう時代に又、迎合したり、無理矢理にこじつけてこれを弁護する変な思想家や学者が出てくる。誠に困った現象です。
 従って佞人が出て来て、それが一世を風靡(ふうび)するということになると、佞人というものは、もったいらしい理屈をつけて、その傾向をあおることが非常にうまいだけに、これくらい危ないことはない。確かに佞人は殆(あやう)いかなでありまして、本当に現代にぴったりの言葉であります。
 微生畝謂 孔子 曰、 丘何爲是栖栖者與、 無乃爲佞乎。 孔子對曰、 敢爲佞也、 疾固也。
 微生(びせい)畝(ほ)、孔子に謂ひて曰く、丘(きゅう)、何為(す)れぞ栖栖(せいせい)たる者ぞ。乃(すなは)ち佞を為すこと無からんや。孔子対(こた)へて曰く、敢えて佞を為すに非ざるなり、固を疾(にく)むなりと。
 微生畝というのは隠者、即ちその時代にあきたらないで韜晦(とうかい)しておる人物の一人でありますが、それが孔子に対してこう言った。
「丘(きゅう)(孔子の名)さん、あなたはどうしてそんなに栖栖、-栖はすむ(・・)という字、忙しい貌(さま)-せかせかと忙しく立ち廻るのであるか。結局は佞を為しておることにならないか」と。
 要するに、あなたも時代に迎合しておるのではないか、とこういう批評なのです。「乃(すなは)ち佞を為すこと無からんや」の無(・)はこの場合むしろ(・・・)と読んで、「むしろ佞を為すか」と言うた方がはるかに宜しい。
 マスコミに躍らされるような人々は大体言わば佞人でありまして、それにあきたらない人々の多くは引っ込んでおります。こういう人々を引っ張り出して活用すれば、現代を救う上に大きな力となるのですけれども、一部の人々によって支配されておるマスコミはもちろん取り上げない。誠に惜しいことであります。
 これに対して孔子は、「敢えて佞を為すに非ざるなり、固を疾(にく)むなり」、自分は時代に媚びておるのでも何でもない、ただ固、かたくな(・・・・)・頑固というものが嫌だからであると言われた。言い換えれば、人間はどこまでも人道的でなければならん、情がなければならん、今日の言葉で言えば、良い意味に於いてどこまでも人間的でなければいかんということです。
 子絶四。母意、母必、母固、母我。
 子、四を絶つ。意母(な)く、必母く、固母く、我母し。
 孔子は四つのことを絶たれた。私意・私心というものがなく、自分の考えで事を必する、即ち独断し専行することがなく、進歩的でかたくな(・・・・)なところがなく、我を張らなかった。

 材を取る所無し
 子曰、道不行、乘桴浮干海。從我者其由也與。子路聞之喜。子曰、由也、好勇過我。無所取材。
 子曰く、道行はれず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従はん者は、其れ由(ゆ)か。子路之を聞いて喜ぶ。子曰く、由(ゆ)や、勇を好むこと我に過ぎたり、材を取る所無し。
 由は子(し)路(ろ)の名前であります。孔子が言われた、「天下に道が行われない。いっそのこと筏(いかだ)に乗って浮かびたいと思う。その時自分に従って来る者は、まあ、由であろうか」と。孔子の感慨無量の言葉であります。筏に乗って海に浮かぶとは、どこかに亡命したいとでも言うところでありましょう。
 孔子が、道が行われないので海に浮かびたいが、その時に自分に勇ましくついてくる者は、恐らく子路であろう、と言われたものですから、それを聞いた子路は喜んだ。
 すると孔子は、「子路や、お前は勇を好む事についてはわし以上だが、どうも餘り素朴で、道具にならん、使いものにならん」とこう言われた。
亡命というものは、細やかな心情を持って、自分の内面生活に生きられるような人には、持ちこたえられるが、ただ本能的な勇気・気概というものだけでは、却(かえ)ってもろいものである。

 都知事問題は何を意味するか
 自民党の東京都知事候補を決められないことに対しての安岡正篤氏の苦言である。
「集まると話題にして、雑談はするけれども、真剣に物事を考えようとしないからである。いやしくも学問をする者は、時局だの、政治だの、というものに対してもっと真剣に考えなければならぬ、と思うからであります。これこそ論語の活きた応用である。前にも申した様に、論語は一名、綸語と言い、又輪語
・ 円珠経と言われる所以もそこにある。」と言っている。

 利は智をして昏からしむ
書物を読んでも、すぐ実社会の問題に結びつかないような読み方は駄目でありまして、こういうのを死学問・死読と言う。われわれはすべからく活学・勝
読でなければならん。
『史記』列伝の中に
「利は智をして昏(くら)からしむ」と言う名言がある。それは利というものは、目先のものであり、官能的なものだからである。言い換えれば利は枝葉末節の
ものである。だから単にそれだけに捉えられておると、人間は馬鹿になってしまう。
 『左伝』には
 「義は利の本なり」とか、或いは、「利は義の和なり」。というようなことも言われてある。
繁栄繁栄と有頂天になって一向賢明な対策を立てようともせず、その日その日の競争をやっておるから、こういうことになる。

 物事は時が来れば変ずる
 ミニ・スカートを発明した有名なデザイナー、マリー・クァントが「自分の発明したミニ・スカートが意外にも世界に流行して、デザイン料も莫大なもの、というので随分羨まれておるようだが、実はあのミニ・スカートは、世の貴族や富豪といった少数のブルジョア婦人の享楽のために作ってきた在来の服飾に対して、自分は娘の頃から反感を持っていて、それが原因で、何か思い切った型破りのものはないものか、ということでいろいろ工夫した結果生まれたものである。そうして幸いに大当たりをとったが、然し実を言うと、もう自分はつくづくミニ・スカートが嫌いになった。といって、さてこれをどうすればよいか、ということになるとさっぱり自分にもわからないので、どうか大方の教えを乞うものである」と言うのであります。
 それは論語にも書いてあるが、人間の事・世の中の事というものは、時が来れば自ずから変ぜざるを得ない、ということをしみじみ感じさせられるからである。論語を読んでも、自分の生活、自分の精神に活きてこなければ、本当に論語を読んだとは言えない。

 先ず自らを知ることが肝腎
 子曰、不患人之不己知、患己不知人也。
 子曰く、人の己を知らざるを患(うれ)へず、己、人を知らざるを患ふ。
 唐代の名高い陸徳明の『経典釈(けいてんしゃく)文(もん)』によると、「己、人を知らざるを患ふ」の人がない、つまり「己、知らざるを患ふるなり」となっておる。
したがって「人が己を知ってくれようがくれまいが問題ではない、そもそも己が己を知らないことの方が問題だ」との解釈になる。
大切なことは先ず自分が自分を知るということである。そこに気がつけば、人のことなど苦にならなくなる。

 自己の生地・素質を生かす
 子夏問曰、巧笑倩兮、素目盼兮、素以爲絢兮、何謂也。 子曰、繒事後素。 曰禮後乎。 子曰、起予者商也、始可與言詩巳矣。
 子夏問うて曰く、巧笑倩(せん)たり。美目(びめ)盼(はん)たり。素以て絢(けん)を為すとは、何の謂(い)ひぞや。子曰く、絵事は素を後にすと。曰く、礼は後か。子曰く、予を起す者は商なり。始めて与に詩を言ふべきのみ。
 子夏が、「笑うとエクボが出て何とも言えぬ愛嬌があり、目元ががぱっちりとして美しく、白い素肌にうっすらと白粉を刷(は)いて益々美しい」と言うのはどういう意味ですかと尋ねた。
 始の二句は『詩経』衛風(えいふう)の中にある。衛国の荘姜(そうきょう)という美婦人を評したもので、後の一句は今の詩経に伝わっていない。素(そ)絢(けん)(白いあやぎぬ)という熟語がありますが、素は色で言えば白です。赤・青・黄と様々な色があるけれども、つきつめてゆけば最後は白になる。化粧も結局はこの白色の使い方である。
 そこで孔子は、「絵画では一番最後に白い絵具で仕上げをするものだ」と言われた。「素を後にす」は、「素より後にす」と読んで、素を素質、即ち忠信の意味とする説もありますが、それはどちらでもよい。問題は白だということです。
 装飾文化に限らず、何事に微しても素を出すことが大事である。これが素以て絢と為す、ということです。
 結局人間の美というものはその人間の素、生地にある。性質から言えば素地・素質にある。これを磨き出すことが一番であります。
 学問も教養も、修養も信仰も、すべて持って生まれた素質・生地を磨き出すのでなければ本物ではない。
 好い年をした相当立派な教養あるべき男でも、むりやりに金だの、地位だの、名誉だの、というものを欲しがって、「沐猴(もつこう)にして冠す」と言うけれども一向自分の生地は何も無いのに、猿が冠をかぶったような人間が多いのです。
 易に山火賁(ひ)という卦がある。賁はかざる(・・・)であると、同時にやぶる(・・・)の意味がある。人類・民族の一番の飾りは文明・文化であるが、これがひっくり返ると、人類・民族はやぶれる、破滅する。賁に忄偏をつけると憤になるが、これも或る意味では発憤になって大事だけれども、まかり間違って単なる腹立ちになると、ろくなことはない。健康に一番悪いのは、私心私欲で腹を立てることである。
その意味で、素絢は素賁と言うてもよい。
 子夏曰く、「礼は後か」、人間は真心が本で、礼は白粉と同じように後仕上げでしょうかと言った。すると孔子はこう言われた、「自分を啓発してくれる者は商(子夏)である。商の如き人間にして初めて共に詩を語ることができる」と。

 仁者であればこそ人を悪む
 子曰、惟仁者能好人、能悪人。
 子曰く、惟(た)だ仁者のみ能(よ)く人を好み、能く人を悪(にく)む。
 仁者はというものは最も真実の人であるから、仁者こそ間違いなく善い人を善いとし、悪い人を悪いとする。確かにこれは真実であります。ところがその次に一見反対のことが書いてある。
 子曰、苟志於仁矣、無惡也。
 子曰く、苟(いやしく)も仁に志せば、悪むこと無きなり。
 いやしくも仁に志せば、人の言う事を、あれもいけない、これもいけない、という風にしりぞけることをしなくなる。
 仁はいろいろの意味に用いられておりますが、最もよく『論語』に出てくるのは、天地画万物を生成化育(かいく)するように、われわれが事物に対して、どこ迄もよくあれかしと祈る温かい心・尽くす心を指す場合である。
従って兎にも角にもその仁に志す様になれば、何事によらずその物と一つになって、その物を育ててゆく気持ちが起こってくる。
 だから好き嫌いが激しいというのは、要するにまだ利己的でけち(・・)な証拠である。

 感激を失った民族は衰退する
 子謂子産、有君子之道四焉。其行己也恭、其事上也敬、其養民也惠、其使民也義。
子、 子産を謂ふ、君子の道に四有り。その己を行ふや恭、其の上に事ふるや敬、其の民を養ふや恵、其の民を使ふや義と。
滅多に人を褒めない孔子が大層子産を褒めておる。子産とは春秋時代の鄭の国の明宰宰相・公孫橋のことで、彼については『春秋左伝』に細々と語られております。
『史記』によると、孔子は彼の亡くなったのを聞いて泣いておる。明治の詔勅に関係した当代一流の人達は、みなよく泣いておることです。天下国家を論
じては泣き、書を読んでは泣いておる。ところが後世になると泣かなくなってしまった。そういう感激性がなくなってしまった。
これは一面から言えば、民族精神の悲しむべき衰退に外ならない。卑屈な利害・打算、私利・私欲にのみ走って、最も人間らしい天下・国家、仁義・道徳、
情緒・情操、感激性溢れる行動、そういったものを失った民族は衰退しておる証拠である。衰退は最悪の場合には滅亡に通じる。
甚だ嬉しくない話だけれども、事実昨今の日本は確かに不吉であります。
 これをどういう風に導いてゆくか。そういうことを考えて『論語』を読めば、本当に論語は活きてくる、又一生の友達になれる。そうして論語というものを何べん読んでも、実は一向読めておらなかったということを、「論語読みの論語知らず」であるということを、しみじみと感じるに違いない。


 中庸章句
 一 序論-変わらざる進歩向上の原理
 歴史と哲学を学ばなければ現代はわからない
 われわれは常にこの現実、時勢というものを考察しつつ本を読む、という態度が大事であります。
 特に今日のような複雑多難な時局になって参りますと、単なる表面的なニュースやレポートといったものでは、ほとんど見通しも立たなければ、解釈もつかない。やはり広く且つ深く歴史と哲学を学ばなければ、本当のことはわからないのであります。
 ところが『六韜三略(りくとうさんりゃく)』『孫子』『呉子』というような戦略・戦術の、原典というか、古典を読んでみると、もうはっきり答えが書かれてある。古典を読むと、現代がはっきりするのです。古典は決して単なる古典ではなくて、現代の活きた注釈になる。しかし或る程度の教養がないと、それをこなすことが難しい、本当の解釈がつかない。

 今日の混乱・頽廃は教養の貧弱に原因するか
 一般に日本の指導階級の教養の貧弱ということが現代日本の弱点になっておることは否(いな)めない事実でありますが、これは指導階級ばかりではありません。学生までも教養が甚(はなは)だ乏しくなっておる。
 やはり真剣に、中国ならば中国の歴史、又その間に生まれておる権威ある古典、それも種類・範囲を相当広げて読んでおらなければ、時局の解釈はできません。そこに今の日本の政界・財界、或いはマスコミ界が権威がなく、混迷する一番痛い理由があるわけであります。

 『ひよわな花・日本』
 ポーランド系のアメリカ人で、ズビグネフ・ブレジンスキーという国際政治学者の書いた、The Fragile Blossom-Crisis and Change in Japan『ひよわな花・日本』という書物があります。
 つまり日本という国は、きれいに咲いているように見えて、実ははかない、もろい花だ、というわけであります。
 それは結局、日本の繁栄には根柢(こんてい)がないということです。精神的・実質的裏打ちがないということです。日本人は国際的にまだ教養・実力ができておらぬ、というこれは痛い批判に外ならない。日本人はあらゆる点に於いて人間的・国民的・民族的教養が本当でない、ということに帰着するようであります。

 『中庸』の意義
 庸は庚+用であります。庚には改める、更新するという意味がありますが、庸にもやはり同じ意味があって、そこから、絶えず刷新してゆく、続くという意味が出て来る。又それに従って、用いるという意味も出て来る。
 そこで中庸とはどういうことか。時代だとか、階級だとか、何だとか、いうようなものに関係なく、一切に通ずる、すべての人に通ずる、恒(つね)に変わらざる進歩向上、とこういうことになるわけでありまして、即ちすべての人が如何に変わらずに、相待って和やかに、調和を保って、進歩向上してゆくか、その原理を説いておるのがこの『中庸』である。
『大学』『中庸』という時の中庸は、すべての人間に通ずる、誰しもこれに則(のっと)って、限り無く進歩向上してゆく永遠の常徳・恒徳という意味であります。

 二 本論―人生に活かす中庸
 
 子程子曰、不偏之謂中。不易之謂庸。中者、天下之正道。庸者、天下之定理。此篇、乃孔門傅授心法。子思恐其久而差也。故筆之於書、以授孟子。
其書始言一理、中散為萬事、末復合為一理。 放之則漲六合、巻之則退蔵於密。其味無窮。皆實學也。善讀者、玩索而有得焉、則終身用之、有不能盡者矣。
 子程子曰く、不偏之(これ)を中と謂(い)ひ、不易(ふえき)之を庸と謂ふ。中は、天下の正道にして、庸は、天下の定理なり。此の篇、乃(すなわ)ち孔門伝授の心法にして、子思(しし)其(そ)の久しうして差(たが)はんことを恐る。故に之を書に筆して、以て孟子に授く。
 其の書、始め一理を言ひ、中ごろ散じて万事と為(な)り。末復(ま)た合して一理と為る。之を放てば則ち六合(りくごう)に漲(みなぎ)り、之を巻けば則ち退いて密に蔵す。其の味無窮にして、皆実学なり。善く読む者、玩索(がんさく)して得る有れば、則ち終身之を用ひて、尽(つく)す能(あた)はざるもの有り。
 子程子の子は、二字共に敬語で、普通は下につけるだけであるが、ここでは特に尊敬を表す意味で、丁寧に上にもつけたわけであります。その程子が中庸の意義を説いてこういうふうに言うておる。
 不偏これを中と言い、不易これを庸と言うと。中とは天下の正しい道であり、庸とは天下の定まった法則・理法である。この『中庸』の一篇は孔子の門に代々伝え授けて来た心の法則であって、それを孔子の孫の子思が、時を経て誤り違うことを恐れ、書物に記して孟子に授けた。
 其の書は、始めは根本的・究極的な一理を説き、中ごろはその一理から分化発展して森羅万象になることを明らかにし、最後にはその万象が又一理に帰することを述べておる。これを広げて分散すれば、南北東西上下の六方、即ち宇宙にみなぎり、これを巻いて統一還元すれば、無限の無意識的密蔵(秘蔵)に帰してしまう。
 われわれの精神機能、意識の働きというものは、内なる心の世界は勿論のこと、外なる現象の世界、宇宙の涯(はて)までも思索し、真理を究(きわ)めようとする。しかしもともと、これは内なるものの発展でありますから、巻いて統一還元すれば、現象の世界から内実根元の世界、無意識の世界に蔵(おさ)まってしまう。
 そもそも人間の意識の世界というものは、限りない自覚発展の世界である、と同時に限り無い無意識的世界の連続である。その無限の無意識層の中から、知覚だの、思(し)惟(ゆい)だのというものが出て来るわけです。
 然(しか)もそのすべてが不幸不滅であって、先祖代々から受け継ぎおさまっておる。物質が不滅であるように、われわれの精神・思惟も亦(また)不滅のものなのです。人間はただそれを忘れるだけのことであって、すべて深層意識の中に退蔵(深くしまう)しておるのである。そこに人間精神の神秘がある。これは近代の哲学や心理学・精神医学を待つまでもなく、古来十分に研究され、活用されておることです。
 早い話が、もし意識というものが不滅でなければ、思い出すということがない筈である。思い出すということは、意識や経験が不滅だからである。夢を見るということは、無意識層の中に退蔵しておるものの散見である。
「人生は夢の如し」と言うけれども、如しではない。本当に人生は夢なのです。『荘子(そうじ)』には実に巧みに描写されておりますが、人生そのものが大夢である、ということが確かに言い得る。
 そもそも息というものは、呼吸と言う如く、吐くことが大事なのです。ところが大抵は、「吸呼」はするが、「呼吸」はやっておらん。大体、肺活量の六分の一くらいしか息をしておらぬそうです。ということは残りの六分の五は汚れた空気がそのまま沈澱(ちんでん)しておるわけである。
 だから人間は時々、思い切って肺の中に沈澱しておる古い息を全部吐き出して、新しい空気と入れ換えねばならん。況んや朝起きた時などは、まず以て戸を開けたら、思い切って夜の間に停滞しておる汚れた空気を吐き出して、新鮮な空気を吸うのです。それが呼吸、別の言葉で「吐(と)納(のう)(道家の呼吸法)」というものである。それだけ汚い空気が宿っておる。停滞しておる。
 宿には、「二宿」といって一つは宿便、一つは宿慝(しゅくとく)(知らず識らずの間に犯した罪・汚れ)。人間はこの二宿で死ぬとまで言われるくらいである。ですから呼吸・吐納、二宿の掃除は心身健康のために是非やらねばならぬ。一つの基本問題です。
 そこで、「其の味無窮にして・・・」、其の味わいたるや窮まりなく、みな実際の用をなす学問である。善く読む者、いろいろ考えて真実を求めて得るところあれば、生涯用いて尽くすことの出来ないものがある。
 誠にこの通りでありまして、われわれの中にはあらゆる意味に於いて、神秘的な精神の機能、徳、力を持っておる。みなそれを知らないけれども、若(も)しその原理をよく知って、実行したならば、終身無窮無尽の利益がある。
 中とはそういうもの、庸とはそういうものです。中は限り無き進歩向上であり、庸は普段の努力・調和である。
 だから中庸とは、われわれの生活、生理・心理・情意の永遠の発展を意味する。そこに中庸の尊い理法があるわけでありまして、玩味すると、本当に限り無い妙味があります。

 本文
 天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。
 天命之を性と謂ひ、性に率(したが)ふ之を道と謂ひ、道を修むる之を教と謂ふ。
 天命の命は造化の絶対的作用を言う。天地自然の一つの特徴は、無限の創造・変化である。約してこれを造化と言う。その造化を一番象徴するものは、何と言っても天ですね。天は限りがない。地の有限であるのに対して天は無限である。と同時に地は固定的であるが、天は変化極まりない。
 そこで天地自然、天地人間の創造変化を象徴して天と言う。天地自然、造化の作用・働きというものは、人間が好むと好まざるとにかかわらず、絶対のものである、必然のものである。その必然性、絶対性を命という語で表すわけであります。
だから命は、いのちであると同時に、言いつけ(・・・・)、命令という文字でもある。
 そうして創造されて、ここに万物が現れて来るのでありますが、それぞれ区別するために名というものがつけられる。つまり命名であります。命名という語は普遍的な用語であり、子供に対して、かくなければならぬ、かくあれかし、という絶対的な意味を持たせて初めて命名であります。
 兎に角天命が、造化の絶対的な作用・働きが、人間を通じて発すると、性というものになる。性は生でもよいのですが、高等動物、特に人間になると、心理・精神が発達して来ておるから、忄偏をつける。これは人間の本質です。
 その性に率(したが)って、実践し開発してゆくのが道というものである。何故道と言うか。人間は道に率わなければ、進むことができない、到達することもできない。だから何事によらず道をつけなければならん。
 従って道というものは、観念的・唯理的なもの(思考のみ)ではなくて、実践的なものである。創造的なものである。兎に角道などと言うと、何か人間の観念的な思惟・思索の産物のように思うが、決してそうではない。人間・自然を通ずる絶対的な働きが天命、これがわれわれの本性であって、この本性に率って、天分の能力に従って、実践してゆくのが道である。
 そこで「道を修むる之を教と謂ふ」、どうしても教えというものが要る。
 教という字は、単に口でおしえる(・・・・)ばかりでなく、実践を伴う。即ちお手本になる、人のならい(・・・)のっとる(・・・・)ところとなるという意味である。だから「教は効(ならう)なり」という注釈があるわけです。教育とは、教師が生徒のお手本になって、生徒を実践に導いてゆくことであって、ただ言葉や文句で教えることではない。
言葉で教えるのは、訓とか、誠とかいうものであります。
 道也者不可須臾離也。可離非道也。是故君子戒慎乎其所不睹、恐懼乎其所不聞。莫見乎隠莫顯乎微。故君子慎其獨也。
 道は須臾(しゆゆ)も離るべかざるなり。離るべきは道に非ざるなり。是(こ)の故に君子は其の睹(み)ざる所を戒慎(かいじん)し、其の聞かざる所を恐懼(きょうく)す。隠なるより見(あら)わるるは莫(な)く(隠るるよりは見はるるは莫く)、微(かすか)なるより顕(あきらか)なるは莫し(微かなるより顕かなるは莫し)。故に君子は其の独を慎むなり。
 われわれの性は天命、即ち造化自体の必然によって与えられたものであり、その性に率うの道というものであるから、道は人間が須臾も離れることのできないものである。離れるようなものは道ではない。
 そこで君子と言われるような人は、人の見ないところに於ても戒め慎み、人の聞かないところに於てもおそれかしこむ。凡そ不善というものは、どんなに隠れておっても必ず現れて来るものであり、又どんなに微細なことであってもいつか明らかになるものである。だから君子は其の独を慎んで、須臾も道から離れまいとするのである。
 「独」という思想は、東洋の思想・学問・信仰・芸術のすべてを通じて離るべからざる、最も基本的本質的な創造概念とでも言うか、大事なものであります。
 独は普通、他に対するひとり(・・・)、数多(あまた)に対する孤、という意味に使うのでありますが、そうではなくて、本来は絶対という意味であります。人前だとか、手段だとか、いうような相対的な自己ではなくて、絶対的な自己を独と言うのであります。
 だから「独立」とは、何ものにも依存しないで、自己自身で立つという権威のある言葉です。国家・民族が独立するということは、他国に依存し左右されないで、その国家・民族自体に於て存立することである。
 「中立」の本義も単に、いずれにも加担(かたん)しないで、中間に立つことでなく、信ずるところは絶対で、一時の政策的方便で相対するものの孰(いず)れにもくみせぬことである。独立も、相対的な矛盾・相剋から離れて孤立することではなくて、そういうものから影響を受けることなく超越して、もう一段上に出て、創造的進歩をすることである。
 自己の絶対的なものを持つ、これを「抱独」と言う。そしてそれを認識するのが「見独」であります。
 自己の存在の絶対性に徹して、初めて真に他を知ることが出来る、他との関係が成り立つ。根本に於て独がなければ、われわれの存在は極めて曖昧(あいまい)で不安定であります。だから君子はそれをよく認識し、徹見して、大切にするのである。「慎独」は中庸に伴う大事な要素であって、これあるによって、本当の進歩向上ができる、所謂中(・)があり得るわけであります。

 古典の効用
 わずかな間に時局はますます変化の度を強めてきておりますことは、みなさんが日々見聞しておられる通りでありますが、この変化は今後一層複雑で厄介なことになってゆくだろうと思います。こういう時局に一番大事なことは、何と言っても見識・信念を持つことでありまして、見識・信念がないと、眼前の現象に捕らえられて、どうしても困惑(こんわく)し勝ちであります。
 それではどうして見識や信念を養うかと言うと、やはり学ぶ外ない。
 何に学ぶかと言えば、結局歴史―歴史は人間が実践して来た経験的事実ですから―と、歴史を通ずる先覚者達の教訓に学ぶことが最も確かでああります。その意味に於て古典は本当に大きな意義がある。
 如何に権威のある古典でも、自分にこなす力がなければ、単なる一片の古典に過ぎません。古典が本当の意義・価値を発揮するには、やはりこちらにそれだけの真剣な体験や思索が要る。

 マンスホルトの警告
 ECの委員長を務めたマンスホルトが副委員長のときに、委員長に書簡でヨーロッパ共同体の明日に関して真剣な警告と提案を行い、それがECの諮問機関である政治経済評議会に発表されて、ヨーロッパを始めアメリカの識者に大きな衝撃を与えました。
 これは今までのような経済政策、つまり科学技術工業の発展と、それに伴ういろいろの事業の推進によって、単にGNPの増加を図る、というようなことをやっておったのではヨーロッパは亡びる。今後はGNPではなくてGNH(グロス・ナショナル・ハッピネス)、国民総幸福でやってゆかねばならぬ、ということを強調しておるわけであります。
 先ず問題は人口の増加である。しかも文明諸国の人口は足踏み、若しくは漸減(ぜんげん)するのに対して、未開発諸国は激増して来ておる。
 そのため第一に、この人口の増加に対して食料生産がついてゆけなくなり、次第に窮迫を告げてゆく。と同時に工業は拡大し、拡大することによって、人間の奢侈(しゃし)・享楽・遊惰(ゆうだ)がいよいよ酷(ひど)くなり、更に工業が拡大することになって、そのために環境の汚染がますます激しくなると共に、一方では資源の枯渇を果たすであろう。
 従ってもう今までのように、ただ生活を豊かにすればよい、というような政策は許されない。奢侈・贅沢・レジャーというような方にばかり走っておったら、ヨーロッパ民族は没落する。われわれは歴史の教える通り、勤倹力行(りっこう)に立ち返らなければならん。そうして生産の問題を始め、社会福祉政策、租税政策といったものを大きく転換しなければならん、とまあ、こういう厳しい提言であります。

 本を読まなくなった日本の子供達
 早い話が今日の日本がそうです。マンスホルト氏の議論し提案しておることの、丁度逆にうごめいておる状態でありまして、特に甚だしいのは教育です。日本の青少年子弟の現状は真に憂うべきものがある。
如何に日本の青少年が本を読んでおらぬか、又読む興味を失っておるか、ということがまざまざと出ておるのです。
 これは日本の明日にとって本当に恐るべき問題でありますが、世間の人が余り喜ばぬために、大きく取り上げられない。だからそのためにも、知識階級・指導階級がもっと読書をし、修養しなければならぬ。
 かって私は『師と友』の巻頭に、「英国と日本」と題して次のような一文を出したことがあります。

 英国と日本
 戦後の英国文壇のG・オーウェル曰く「最近数十年に於けるイギリス生活の支配的な事実の一は、支配階級の能力の低下ということである。特に1920年から40年にかけては、それが化学反応のような速さで起こりつつあった。何故か支配階級は堕落した。能力を、勇敢さを、遂には強情さまで失って、外見だけで根性の無い人物が立派な才幹を持った人物として立てるようになった。
 -けれども1930年代から起こった帝国主義の一般的衰頽(すいたい)、又ある程度までイギリス人の士気そのものも衰頽したことは、帝国の沈滞が生んだ副産物の左翼インテリ層の所為(せい)であった。現在忘れてならないのは、何らかの意味で左翼でないインテリは居ないということである。
 彼等の精神構造は各種の週刊月刊の雑誌を見ればよくわかる。それらのすぐ目につく特徴は、一貫して否定的な文句ばかり並べて、建設的な示唆が全く無いことである。料理はパリから、思想はモスクワからの輸入である。彼等は考え方を異にする一種の島をなしている。
 インテリが自分の国籍を恥じているという国は大国の中ではイギリスだけかも知れない。国旗を冷笑し、勇敢を野蛮視する、こんな滑稽(こっけい)な習慣が永続できないことは言うまでもない、等々各方面にわたって公平辛辣(しんらつ)に観察しながら、最後はイギリスがそれとわからぬくらいに変わっても、やはりイギリスはイギリスとして残るであろう」と論じている。
 日本をまざまざと反省せしめられる日本解脱(げだつ)の一公案である。

 専門的(せんもんてき)愚昧(ぐまい)
 専門的愚昧という言葉があるが、専門のみをやっていると、人間は単調になり、機械的になって、尊い生命の弾力性・創造性というものを失ってしまう。
創造性とか弾力性とか、情熱とか叡智(えいち)とか、というようなものがだんだん無くなってしまう。
 そこで、職業人・専門家になるほど、一面に於て人間的教養を豊かにすることを心掛けなければいけない。それにはやはり、全人的な教養を豊かに含む聖賢の書とか、古典とか、歴史哲学の書物とか、いうようなものに親しむことが一番です。

 英国のことを笑っておられない日本の現状
 イギリスの作家故ジョージ・オーウェルの『1984年』という本に、「何故か支配階級は堕落した。能力を、勇敢さを、遂には強情さまで失って、外見だけで根性の無い人物が立派な才幹を持った人物として立てるようになった」と言う。さらに「帝国の沈滞が生んだ副産物の左翼インテリ層の所為であった」と言うのです。彼はそういうインテリが自分の国籍を恥じ、国旗を冷笑し、勇気を野蛮視するのは、大国の中ではイギリスだけかもしれないと言っておるのですけれども、日本はもっとひどいですね。
 国家・民族にとって精神的頽廃・堕落くらい恐いものはありません。そこへ持って来て、政治がご覧のような有様であります。
 昔は政治も、経済も、教育も、思想も、学問も、それぞれ独自の分野があって、従ってみな独立性を持っておった。ところがこの頃は相互に離るべからざる連環性が出来て、特に政治の比重が重くなって、政治を離れては何物も考えられなくなって来ておるにもかかわらず、その政治が困ったことに非常に堕落して来ておるわけであります。民主主義制度の一番の弱点を今日のアメリカが、又日本が、暴露しているわけであります。
 喜怒哀樂之未發謂之中、發而皆中節謂之和。中也者天下之大本也、和也者天下之達道也、致中和、天地位焉萬物育焉。
 喜怒哀楽の未(いま)だ発(はつ)せざる之れを中(ちゅう)と謂(い)ひ、発(はつ)して皆節に中(あた)る之れを和(わ)と謂ふ。中(ちゅう)は天下の大本(たいほん)なり、和は天下の達(たつ)道(どう)なり。中和(ちゅうわ)を致して、天地位(くらい)し万物育(いく)す。
 人間の意識が進むにつれて、喜怒哀楽の感情が発達するわけでありますが、その感情の未だ発しない時、即ち一種の「独」の状態、これを別の言葉で「中」と言う。中が発してみな節に中(あた)る、これが「和」というものである。
 未発の中とはthe whole、全きものということです。これが発するということは、根から幹が出て、枝葉が伸び、花が咲き、実が成る、というのと同じことでありまして、全体的・含蓄的(がんちくてき)(深い意味を含む)・全一的なもの、即ち独というものが、天地の創造の作用によっていろいろに発展してゆく。つまり創造・造化の働きが起こる。発して種々の作用になるわけです。従ってその作用はそれぞれ全き存在・無限なるものの一部分である。これが「節」です。
 「節」は、創造的なるものの、一つの連続なるものの一部分であります。そういう創造の作用、造化の働きの基本的なものが節でありますから、従って節は、連続に対して言うならば、一つの締めくくりである。
われわれの意識を「気」という文字で表しますが、意識にもやっぱり意識の基本的なものがあるわけで、われわれはそれを「気節」と呼んでいる。その気節を失わないのが「節操」であります。
「中は天下の大本なり、和は天下の達道なり」
 われわれの生命で言いますと、生命全体の働きが中、その生命が発達して来るにつれて、四肢(しし)五体が出来上がる。一つの細胞であったものがだんだん複雑に発達して、そこから手足が出来、他のいろいろの部分が出来て、しかもそれぞれはみなどこかで統一されて、一個の身体が形づくられる。つまり身体は結節から成り立っておるわけで、結節の大きな「和」が人身というものである。

 従って「中」と「和」は、大きく広げると、天下の格法(正しい法則)となる。
その「中和を致す」、だんだん完成してゆくところに、天地というものがあり、育生というものがあると言う。

 雑書雑読は役に立たぬ
 こういう時局になって参りますと、所謂雑識では役に立ちません。やはり「腹中・書有り」というような、自分の腹の中に哲学や信念がないと、到底解決・善処が出来ません。
 国際会議等で日本人は議場等に於ける事務的な話は達者に出来るが、どうも会話が大変拙(つたな)いと言われております。上下(かみしも)をを脱いだ自由な席に出ると、まるで人が変わったように話が出来ないと言うのです。これは要するに自分自身に、哲学とか、信念とか、人間的教養といったものがないからであります。
話し合いという言葉があるように、お互いに親しく話し合っておる間に難しい問題も案外簡単にかたづくものです。理屈や予定の筋書というようなものでは微妙な問題は解決出来ません。そうなると、普段の教養が物を言うわけでありまして、やはり権威のある書というようなものが自分の中に本当にこなれておらなければならない。これは俄(にわ)か仕立てでは利きません。

 六中観
 「忙中、閑(かん)有り」、忙しい中にも閑がある。閑は自ら見つけ出してゆくものです。
 「苦中、楽有り」、苦しい中に楽しみがある。本当の楽というものは、楽の中にあるのではなくて、苦の中にある。苦中の楽、これが真の楽というものです。
 「死中、天有り」、死の中に活きるということがある。死を観念する中に本当の生がある。死を通じて活を知り、活の中に死を見る。これが人生の本当の生き方でなければなりません。
 「壺中、天有り」、壺の中に一つの世界がある。別天地がある。楽しみというものは、この現実の生活、この人生の中に発見されるものであって、決して別の世界にあるのではないということであります。
 「意中、人有り」、心の中に人がある。意中に人を持つということは難しい。けれども、これは大なり小なりわれわれにとって大変大切なことであります。
 「腹中、書有り」、腹中に書を持っておる。自分に哲学・信念を持っておるということです。雑書を雑読しても役に立たぬ。『中庸』なら『中庸』一巻でよい、本当にわがものにするということが大事であります。
 仲尼曰、君子中庸、小人反中庸。
 仲(ちゅう)尼(じ)曰く、君子は中庸、小人は中庸に反すと。
 中とはあらゆる矛盾を総合・統一して、絶えざる進化を遂げてゆくことです。
 庸は庚(こう、更(あらた)める意)+用でありまして、第一は用いるという意味。しかし用いるにはそこに常則・法則がなければならない。つまりつね(・・)という意味。
しかし用いるにはそこに常則・法則がなければならない。つまりつね(・・)という意味。そうすると必ずそれだけの成績が上がる。そこで成績・功績の意がある。成績が上がると、次第に人がそれに注意し、理解して共鳴するようになる。だから和する(・・・)、やわらぐ(・・・・)という意が出てくる。又人を用いるから、やとうであり、雇人(・・)である。
 更につね・常則というところから一転して、当たり前・並、凡とくっついて凡庸というような語を生むようになる。しかし本来は庸は、人間の厳粛な統一原理を意味する文字であります。
 仲尼(孔子)は言われた、君子が世に処するに当たっては、誰にも通ずる常則をふまえて、あらゆる矛盾・相克(そうこく)を克服して、どこまでも進歩向上して已(や)まぬ
が、小人はその反対であると。小人は常に私心・私欲によって生きますから、どうしても頑迷・固陋(ころう)に陥って進歩向上しない。
 君子也中庸也、君子而時中。小人之反中庸也、小人而無忌憚也。
 君子の中庸や、君子よく時中(じちゅう)す。小人の中庸に反するや、小人よく忌憚(きたん)するなきなり。
 君子の中庸とは、あらゆる場合、あらゆる問題をよく考え反省して、そうして常に進歩向上してゆくのである。これに対して小人の中庸に反するというのは、ああやってはいかん、こうやってはいかん、というふうに良心的に忌(い)み憚(はばか)るところが少しもない。つまり小人というものは自分の私心・私欲によって動いて、そこに反省というものがない、と慨歎(がいたん)されたわけであります。


 論語の人間像
 一 時代背景
 三聖人輩出の時代
 釈迦・孔子・ソクラテスを世界の「三大聖人」と言う。紀元前5,6世紀の頃に相前後して世に出た。シナでは周王朝の時代で、その周室の王権が、内部的な頽廃(たいはい)と外部からの攻撃とによって、漸(ようや)く衰退に向かっておった。それは紀元前770年頃のことである。それから前440年までの間を春秋と言い、春秋の後を戦国と言う。だから孔子は春秋の終わりに生きたわけです。

 春秋・戦国の時代
 周王朝が山西・陝(せん)西(せい)に興った頃のシナには、大体千八百くらいの封建国家があったとみられるのでありますがそれが弱肉強食の結果次第に減って、春秋の初めには百四十あまりになり、やがて末期には二十ないし十五の代表勢力にまで要約されるに到った。これらの諸国家が栄枯盛衰・治乱興亡を繰り返して、春秋・戦国に多彩な歴史をつくったのであります。
 今、その頃の治乱興亡の迹(あと)を内面的に考察すると、結局つきつめて言うならば、人間が健全であるか、頽廃するか、ということの二つに帰着する。人間というものは、苦難の中から成功するのであるが、いざ成功すると、容易に頽廃・堕落して、やがて滅亡する。これはいつの時代も同じでありまして、人間は性懲りもなくこれを繰返して来ておるわけであります。
「成功は常に苦辛(苦心)の日に在り、敗事は多く得意の時に因(よ)る」とは誰もが知っておる名高い格言ですが、実際その通りであります。

 二 此の時代の人物の種々相
 そこで道徳的・精神的に堕落し、中央集権が衰えて、次第に混乱に陥っていった孔子の時代に、一体どういう人物が世の中の表面に立って活動したか、ということをか『論語』の上から調べてみると、これが又実に面白い。

 佞・美
 子曰、不有祝鮀之侫、而有宋朝之美、難乎、免於今之世矣。
 子曰く、祝鮀(しゅくだ)の侫(ねい)ありて、宋朝(そうちょう)の美有らざるは、難きかな、今の世に免かれんこと。
 孔子が言われた、「祝鮀のような雄弁と、宋朝のような美貌がなければ、到底今の世につまずかずに出世することは難しい」と。
その時代に時めいた人物の代表の一例が、祝鮀であり宋朝であったわけですが、要するに雄弁-表現の上手な口のうまい人間、或いは風采(ふうさい)が立派で堂々たる人間、そういう人間が世の中に表面に立って活動しておったということです。これは言い換えれば、曲学阿(きょくがくあ)世(せい)といった連中であります。

 聞人と達人
 その次に、何等かの才能を持って盛んに活動する名士というものが現われ、所謂時代の人、時の人であります。がこの名士、本当は聞人というものだと孔子は言われる。
 子張問、士何如斯可謂之達矣。子曰何哉、爾所謂達者。子張對曰、在邦必聞、在家必聞。
子曰、是聞也、非達也。夫達者、質直而好義、察言而観色、慮以下人。在邦必達、在家必達、夫聞者色取仁而行違、居之不義、在邦必聞、在家必聞。
 子張問ふ、士如何なればこれを達と謂ふべき。子曰く、何ぞや、爾(なんじ)がいはゆる達とは。子張対(こた)へて曰く、邦(くに)に在りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。
子曰く、これは聞なり、達にあらざるなり。それ達なるものは、質(しつ)直にして、義を好み、言(げん)を察して色(いろ)を観、慮(はか)って以て人に下る。邦にありても必ず達し、
家に在りても必ず達す。それを聞なるものは、色に仁(じん)をとりて行ひは違(たが)ひ、これに居りて疑はず。邦にありても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。
 弟子の子張が孔子に訊(たず)ねた、「士人はどのようであれば、これを達人と言えるのですか」と。孔子言う、「一体どういう意味であるか、なんじが言うところの達というのは」。「はい国家の職におっても必ず有名になり、王室や大名家の家老職におっても必ず有名になる、これが達人というものではないでしょうか」。
「それは聞、有名になるということであって達人ではない。そもそも達人というものは、性質が真っ直ぐで、名や利を好むのではなくて、人間が如何にあるべきか、又為すべきか、という義を好み、人の言うこと・主張することをただ言葉通りに聞くのではなくて、よくその言葉の奥を察して真実を見究め、万事心得た上で謙遜に人に下るのである。だから国家の職におろうが、王室や大名の家老職におろうが、どこにおろうが、必ず達する、立派に用いられる。
 これに対して聞-聞人というものは、世に所謂名士というものは、如何にも表面では仁をとるが如く見え、世のため・人のためというような仁らしいうまいことを言うが、実際の行は、まるで仁とは違う。然も自分では一向良心の呵責(かしゃく)もなく平然とその地位におって、うまく人心に投じ、時に乗じて、要領よく世渡りをしてゆくから、国家の職におっても、王室・大名に仕えておっても、どこでも有名になる」
 聞人を現代の語に翻訳すると、テレビタレント・経済タレント・政治タレントなどなどのタレントでただ表現や口先がうまい人を指す。

 郷原
 正直に自分の意見を主張して、論戦したり、反対したり、というようなことは一切しない。自らの見識、信念に従って堂々と行動しない。誰にでも調子を合わせて、自分だけいい子になってゆく人間、つまり世渡りのうまい人間のことを、郷原(きょうげん)(愿)と言うのであります。
 子曰、郷原徳之賊也。
 子曰く、郷原は徳の賊なり。
 郷原、郷は村、一地方、原はまこと・善の意で、つまり村や田舎の善人であります。孔子は言われた、「田舎の善人と言われるものは-あの人は善い人だと評判の良い人間は、上っ面だけ調子を合わせていい子になろうとするから、却(かえ)って徳をそこなうものである」と。
 郷は別に村・田舎に限らない、生活の場、職場みな郷です。
 以上のように春秋から戦国にかけての時代は、侫・美の人間、名士・聞人・郷原といったものが時代を支配し、或いは時代の代表的な存在であった。そういう中に孔子が現れて、聞人や郷原を向こうに廻して自らの信ずるところに従って、堂々と主張し、行動したのであります。

 三 孔子の人と為り
 辛酸を嘗めた少年時代
 孔子は魯の国・陬邑(すうゆう)というところに誕生し、名は丘(きゅう)、字(あざな)を仲(ちゅう)尼(じ)と言う。尼(に)丘(きゅう)という霊地に祈願をかけて授かった子である、というのでこの名がつけられたと一般にはされておる。
 副論語と言われる『孔子家語(こうしけご)』によると、孔子のお父さんは叔梁紇(しょくりょうこつ)と言い、家は貧乏であったが、陬邑地方の代表的な家系であった。叔梁紇の一生は
行事(こうじ)はよくわかりません。ただ大変武張(ぶば)った(勇ましい)、厳しい性格の人であったようであります。
 孔子を生んだお母さんの徴在は後妻で、先妻の腹に九人の女と一人の男の子があったという。お父さんの叔梁紇は孔子が三歳の時に亡くなり、しばらくしてお母さんの徴在も亡くなっておる。家が貧乏で、子供がたくさんあって、しかも一番の末っ子ですから、少年の頃から働きに出て苦労を嘗めておるのであります。

 多能の君子
 太宰問於子貢曰、夫子聖者與、何其多能也。子貢曰、固天縦之将聖、又多能也。子聞之曰、太宰知我者乎。吾少也賤。故多能鄙事。君子多乎哉、不多也。
 太宰(たいさい)、子貢に問ふて曰く、夫子(ふうし)は聖者か、何ぞ其れ多能なるや。子貢曰く、固(もと)より天(てん)縦(しょう)の将聖にして、又多能なり。子これを聞いて曰く、太宰、我を知れる者か。吾れ少(わか)くして賤し。故に鄙事(ひじ)に多能なり。君子、多ならんや、多ならざるなり。
 太宰は宰相の意味ではなくて、呉の国の官名で、六(りく)卿(けい)の一つであります。呉の国の太宰が子貢に訊ねた、「孔子のような方を所謂よく出来た人というのでしょう、何とまあ、よういろいろのことが出来ますね」と。この場合の聖者は、聖人ではなくて、通俗的な意味でのよく出来た人という意です。
 すると子貢が、「もとより先生は生まれつきの天のゆるした、何の捉われるところもない自由自在の徳を持った大層立派な人であってその上に何でもよくお出来になります」と答えた。
 それを聞いて孔子はこう言われた。「さすがに太宰は私のことをよく知る人である。私は少年時代には貧賤であった。だからつまらぬ(・・・・)こと(・・)でも何でも出来るようになったのである。一体君子というものはそんなにいろいろの事が出来るものであろうか。いやつまらぬことなど出来たとて君子にとって問題ではないのだ」と。
 又、その後にこういうことも言われております。
 牢曰、子云、吾不試、故藝。
 牢(ろう)曰く、子云ふ、吾れ試(もちい)られず、故に芸ありと。
 講師の弟子の牢が言った、先生は「自分は世に用いられなかった。そのためにいろいろのことが出来るのだ」と言われたと。
 面白いですね、要するに人間は、あれもこれもと何でも出来るなどというのは、決して自慢にはならぬということです。それよりも何か一つのことに打ち込んだ方がよい。
 人間はやはり、鄙事(ひじ)に多能になるよりも、無能になった方がよい。
 もう一つ、孔子の真面目(しんめんぼく)をうかがうのに面白い一節がある。

 感激性の豊かな人
 葉公問孔子於子路。子路不對。子曰、女奚不曰、其為人也、發憤忘食、楽以忘憂、不知老之將至也云爾。
 葉(よう)公(こう)、孔子を子路に問う。子路対(こた)へず。子曰く、女(なんじ)なんぞ曰はざる、其のひとと為(な)りや、憤を発して食を忘れ、楽しんで以て憂を忘れ、老(おい)の将(まさ)に至らんとするを知らざるのみと。
 葉公が、「孔子という人は一体どういう人ですか」、と子路に訊ねたが、子路は答えなかった。
 それを聞いて孔子はこう言われた、「お前はどうして言わなかったのか、その人と為りは、憤を発しては食も忘れ、道を楽しんでは憂いも忘れて、やがて老いのやって来ることにも気がつかない」と。
 発憤は言い換えれば、感激性というもので、これは人間にとって欠くことの出来ない大事なものである。発憤は人間の動力であり、エネルギーである。
従って発憤のない、感激性のない人間は、いくら頭が良くても、才能があっても、燃料のない機械・設備と同じで、一向に役に立たない。


 四 救い難き人物
 無為徒食の輩
 子曰、飽食終日、無所用心、難矣哉。不有博奕者乎、為之猶賢乎已。
 子曰く、飽食終日、心を用ふる無きは、難(かた)いかな。博奕(ばくえき)なるもの有らずや、これを為すは猶已(や)むに賢(まさ)れり。
 孔子が言われた「腹いっぱい食って、一日中のらりくらりして一向に心を働かさないというのは、何とも困ったものだ。それなら博奕(ばくえき)―双六(すごろく)や碁・将棋
といった勝負事があるではないか、まだその勝負事でもやった方が何もしないでごろごろしておるよりもましだ」と。

 小ざかしい人間
 子曰、羣居終日、言不及義、好行小慧、難矣哉。
 子曰く、群居終日、言、義に及ばず、好んで小慧(けい)を行ふ、難いかな。
 孔子が言われた、「様々な人間が一日中大ぜい集まっておって、話が少しも道義のことに及ばない、そうして小ざかしいことを好んでやっておるのは、本当に困ったものである」。
 何とかクラブというようなところへ行ってみると、よくわかる。折角の会合だからというので行ったのに、いつまでたってもそれらしい話が出て来ない。そうして小智慧のまわるようなことをやってお茶をにごしておる。小慧は、小智慧がまわるとか、小才が利くとかいう意味です。

 女子と小人
 子曰、唯女子與小人、為難養也。近之則不遜、遠之則怨。
 子曰く、唯(た)だ女子と小人とは養い難しと為す。これを近づくれば即ち不遜、これを遠ざくれば則ち怨(うら)む。
 孔子が言われた、「女子と小人とはまことに養いにくいものである。近づけると、狎(な)れて無遠慮(ぶえんりょ)になり、遠ざけると怨む」。
 小人は、いつまで経っても人間として成長しない人、つまり普通の人という意味です。

 四十になって人から見切りをつけられる人間
 子曰、年四十而見悪焉、其終也已。
 子曰く、年四十にして悪(にく)まるるは、其れ終らんのみ。
 孔子が言われた、「人間、四十にもなって、人から見切りをつけられるようでは、もうお終(しま)いである」と。
 悪は、所謂(いわゆる)にくむではなくて、嫌悪(けんお)の悪、見切りをつける、愛想をつかすという意味です。
面は面相、人相です。すべてが人相に現れるのですから、その人間を知るのに人相くらい的確なものはない。人は四十にもなったらその人なりに、人相が出来なければいけない。しかし人相といっても、面相だけが人相ではありません。身体のあらゆる部分に相があって、それをひっくるめて人相と言うのです。
 子曰、後生可畏也。焉知来者之不如今也。四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已矣。
 子曰く、後生(ごしょう)畏(おそ)れるべし。焉(いづくん)ぞ来(らい)者(しゃ)の今に如(し)かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆる(或いは聞く)こと無くんば、斯(こ)れ亦(また)畏るるに足らざるのみ。
 孔子が言われた、「後生-後輩・後進というものは大いに畏敬しなければならない。後から来る者がどうして今の先輩に及ばないということがわかろうか。しかし如何に有望な後生でも、四十五十になって世間の評判にならぬようならば、これは畏敬するに足らない」と。
 兎角人間というものは、自分が偉いと己惚れて、若いもののあら探しをやるものであるが、さすがに孔子は違う。何も先輩が偉いと決まったものではない、それどころか後生の中からどんな偉い者が出て来るかわからぬと言われる。
 つまり人間というものは、たとえ如何なる地位・境遇にあろうとも、四十五十になってその人なりに人間が出来て来ると、必ずその居るところ、居る範囲に於て、人の目につくものである。評判になるのもである。だからその年になって存在がわからないような人間は、畏敬するに足らない。


 五 人の世の難しさ
 千変萬化、人の世の難しさ
 子曰、可與共學、未可與適道。可與適道、未可與立。可與立、未可與權。
 子曰く、与(とも)に共に学ぶべし、未だ与に道を適(ゆ)くべからず。与に道を適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与には権(はか)るべからず。
 普通は、孔子が言われた、「共に並んで学ぶことが出来ても、共に道をゆくことは出来ない。共に道をゆくことは出来ても、共に立つことは出来ない。共に
立つことは出来ても、共に臨機応変、自由に問題を処理することは出来ない」というのでありますが、道は勿論道徳の道には違いありませんが、必ずしもここでは道徳と限る必要はない。もっと直接的に道と考えて宜しい。
 そもそも道とは、これによらなければ、人間が存在することが出来ないもの、生活し行動してゆくことが出来ないもの、そくで道と言う。
 従って人間が生活するに当たって一番大事なことは何かと言うと、先ず道をつけることですね。人生があれば必ず道がなければならぬ。道がなければ歩けない。又従って何物をも創造することが出来ない。われわれが常に歩く道も、如何に生くべきかという道も、根本は同じものである。それを道という。
いずれにしても共に立つということは難しいことである。しかし、その難しい共に立つ、ということもまだ出来る。けれども共に立つことが出来るからというて、共に権(はか)ることが出来るかというと、これは実に難しい。権はいろいろな変化に応じてゆくという意味です。人世のことは千変万化ですから常に権らなければいけない。ところが人間はこれがうまく出来ないために、大昔から今日まで相も変わらずに問題を起こしておるわけである。

 真の君子
 子曰、質勝文則野。文勝質則史。文質彬彬、然後君子也。
 子曰く、質、文に勝てば則ち野(や)。文、質に勝てば則ち史。文質彬彬として、然る後に君子なり。
 孔子が言われた「誠実・質朴というような内実が、外貌のあや・かざりよりも強ければ粗野。あや・かざりが、内実よりも強ければ、朝廷の文書を司る史官と同じで、礼にはかなっておっても誠実さに欠ける。文と質とがうまく調和して、初めて君子と言える」。
 人間には質と文とがある。質は言うまでもなく内に実在するもの、即ち内実であり、内実の表現が文に外ならない。だから文はあや・かざりである。
 しかし、内実というものは元来無限性のものであるけれども、それが外に現れるほど有限的なものになる。しかも外に現れる表現というものは、これは内実が現われるのであるから実現に違いないけれども、表現は常に実現ではない。

 道を学ぶことの尊さ
 人間も木と同じことですね。少し財産だの、地位だの、名誉だの、というようなものが出来て社会的存在が聞こえて来ると、懐の蒸れと一緒で好い気になって、真理を聞かなくなる、道を学ばなくなる。つまり風通しや日当たりが悪くなるわけです。
よく言われることですが、名士というものは名士になるまでが名士であって、名士になるに従って迷士になるなどと申します。
 従って人間はやはり、真理を学び、道を行ずることがどうしても必要であります。これを忘れると駄目になる。本当の偉人というものは、真人というものは、名誉や権勢よりも、もっと本当のもの・真実のものを求めて、それで偉くならなければならないのであります。

 六 斉の名宰相・晏子
 孔子・斉を去る
 孔子が30代の終わり頃斉(せい)の国に迎えられて、大いに用いられようとしたことがある。その時のことを記したのが、次の一節です。
 斉景公待孔子曰、若季氏則吾不能、以季孟之間待之。曰、吾老矣、不能用也。孔子行。
 斉の景公、孔子を待って曰く、季氏の若(ごと)きは則ち吾れ能はず、季孟の間を以て之を待せん。曰く、吾れ老いたり、用うること能はざるなり。孔子行(さ)る。
 斉の景公が孔子を待遇するのに、「魯の国の三卿の中でも貴い上卿の季氏と同じような待遇は出来ないが、季氏と下卿の孟氏との中間の待遇を致しましょう」と言った。そうして「私も、もう年をとった。到底用いることは出来ない」と言ったので、孔子は斉を去った。
 如何にも待遇が不満で、孔子が去ったように解せられないこともない。しかし孔子が斉の国を去ったのには、外に理由がある筈であります。

 名宰相・晏子
 当時景公を補佐した人に、晏子(あんし)という名高い名宰相があります。
 景公が兎にも角にも乱世にその地位を全うすることが出来たのは、晏子のお蔭でありますが、その晏子が孔子を用うることにあまり賛成ではなかったので、景公も晏子の心を察して、孔子を尊敬したけれども、左程(さほど)(それほど)立ち入って話をしなくなった。それで孔子も諦めて、斉を去ったのだと推定されるわけです。
 しかし若(も)しそうだとしても、晏子という人は、決して己の利益などを考えて反対するような人ではない。その辺の事情が『晏子春秋』を読むと、幾分窺(うかが)われるのであります。『晏子春秋』は、勿論晏子を中心にして書かれたものでありますが、『論語』と同様、自身が書いたものではない。しかし実に妙味のある、人間味豊かな書物でありましす。これを読むと、晏子は孔子よりも少し先輩で、孔子が五十くらいの時に、両者は斉で遇(お)うておりますが、共に達人でありますから、両者相通じたことが到るところに現れておる。そういうところからみても、晏子は決して無理解であったり、或いは殊(こと)更(さら)孔子の採用に反対したのではない。理想家で潔白な孔子と俗物官僚との合わぬことを知って首を捻(ひね)ったということがよくわかります。むしろ斉の内情にに照らして、これを円満にかたづけたと思われるのであります。晏子は、その教養・識見・人間味というような点において、実に孔子と相通ずるものがあります。その晏子のことが『論語』
にも一箇所出て参ります。

 孔子の晏子評-善交・久敬
 子曰、晏平仲善與人交。久而人敬之。
 子曰く、晏平仲善く人と交はる。久しうして人、之を敬す。
 孔子が言われた、「晏平仲は善く人と交わった。そうして久しく交われば交わるほど、人は晏平仲を尊敬した」と。
人間は交わらずには生きられない。社会的動物と言われる所以もそこにあるわけですが、そのくせ本当の交わりというものはなかなか出来ないものであります。それではどれだけ、本当の交わりをしておるか、善く交わっておるか、というようになると、大抵は少し交わると、文句が出る、面白くなくなる、というようなことで悪くなりがちである。従って善交ということは、実に貴いことでありまして、晏平仲はその善交の出来る人であったわけです。
 然もそれだけではない。更にその上に、「久しうして人、之を敬す」、久しく交わるほど人は彼を尊敬したというのです。この久しいということが又難しい。まかなか続かない。
 人との交わりにおいて、久しくなると、あらが見え易い、嫌になり易い。だから久しく交わって敬意を抱かせられるというのは、よほどその人間が偉いのである。と同時に交わる相手も亦心掛けがよいということが出来る。

 一狐裘三十年―私生活には極めて無頓着
 晏子という人は、私生活には極めて無頓着な人で、一狐裘(こきゅう)三十年と書いてありますが、同じ皮ごろもを三十年も著古(きふる)して、平然としておったという。
所謂シナ服というのは、昔から極めて粗末なものであります。その代わり中は贅沢に著る。すばらしい毛皮などを内側に著ておる。贅沢をする人ほど外に出さない。
 晏子はその内側を著る皮ごろもを三十年も著ておった。又夫婦関係もきれいで、生涯妾を持たなかった。

 晏子と景公との対話
 或る時二人で何処(どこ)かへ遠出をした。景公が打解けて晏子に、“何か希望とか、願いとか、いったものがあれば、一つ聞かせれくれ”と言うたら、晏子はこう答えた、“自分を畏れてくれるような君があり、自分を信じて生涯連れ添うてくれる妻があり、何か遺してやろうと思うような伜がある、これが私の願いです”と。“もう外にないか”。“まだあります。折角お仕えするのですから、君は明君であって欲しい。同じ娶(めと)るなら、才長(た)けて眉目(びもく)美(うるわ)しき妻が宜しい。あまり富まなくてもよいが、貧しいのもいけません。それに良い隣人が欲しいものです”。
“まだあるか、あれば言うてみよ”、景公が言うと、“君ありて輔(たす)くべく、妻ありて去るべく、子ありて怒るべし”、輔佐(ほさ)に世話のやける暗君、追い出したくなるような妻、時々どなりつけたくなるような伜、これが至極の願いだという。つまり慈悲のユーモラスな表現であるわけです。
 或る時景公が晏子に、政治の要諦を尋ねたところ、政治に一番大切なことは、又従って最も心配すべきことは、善悪を分かたざること、はっきりせぬことだと言うておる。

 七 子産と甯武子
 鄭の宰相・子産の政治
 晏子よりも更に先輩で、孔子が深く傾倒し、又少なからず影響をうけておると思われる名宰相がある。それは『論語』にもしばしば出て来る子産であります。子産は周の都・洛陽に最も近い鄭の国の宰相でありますが、孔子が31歳の時に亡くなっております。子産が亡くなった時に孔子は泣いた、と書いてありますから、よほど心服しておったものとみえる。その子産について孔子はこう言っております。
 子謂子産、有君子之道四焉、其行己也恭、其事上也敬、其養民也恵、其使民義。
子、 子産を謂ふ、君子の道、四有り。其の己を行ふや恭、其の上に事(つか)ふるや敬、其の民を養ふや恵、其の民を使ふや義。
孔子が子産のことをこう言われた。「子産には君子の道が四つある。自分の他に対する行動はうやうやしく(恭は他に対する敬意の美しい表現)、上に仕え
るにはうやまい(敬は自己が心より高きもの貴きものに向かう時の道徳的感情)、民衆を養うには恵み深く、民衆を使うには時・所の宜しきを得て行き届いておった(民衆を動員するのに、彼等のいろいろの生活条件を無視することなく、無理をせずに適当に使った、機宜を得たということです)」。
若し本当に己が信ずるところの立派な政治を行おうとすれば、利己的で放縦(ほうじゅう)な民衆、又その民衆の中にあっていろいろ私利私欲を行っておるような勢力と、必ずぶつかる。そうして先ず起こってくるのが反対の声であり、やがてそれが次第に圧力団体の動員となって、脅迫行動・暴力行動といったものが続出して来る。この時に大抵の政治家は参る。
それを子産は毅然として戦い抜き、然も次第に認められ、逆に感激されるように持っていったというのは、よくも出来たものだと感心する。
子産という人は、如何に偉い人であったか、又政治家としても如何に勝れておったか、ということがわかります。これによっても、政権は又持続ということが必要で、短命政権ではいけません。

 甯武子の愚
 やはり孔子の先輩で、変わった風格のある政治家がある。それは甯(ねい)武子という人です。
 子曰、甯武子、邦有道則知、愚。邦無道則其知可及也、其愚不可及也。
 子曰く、甯武子、邦に道あれば則ち知、邦に道無ければ則ち愚。其の知及ぶべきなり、其の愚及ぶべからざるなり。
 孔子が言われた、「甯武子は、国に道がある時は智を発揮し、国に道がない時は愚になった。その智は真似することは出来るが、その愚は到底真似ることが出来ない」。
 甯武子は、春秋初期の人で、衛の国の大夫である。孔子よりも百年あまり前の人ですから、子産よりも更に先輩であります。
「其の愚及ぶべからざるなり」を、その馬鹿さ加減が話しにならぬ、という風に解釈するのではない。
 知は―頭が良いとか、気が利くというようなことは、五十歩百歩で、決して真似の出来ぬことではない、学んで到り得ぬことではない。けれども人間というものはなかなか愚-馬鹿にはなれぬものであります。甯武子という人は、人の真似の出来ない馬鹿になれた人だというのです。
 『論語』で「民は之を由(よ)らしむべし、之を知らしむべからず」は、要するに「民は之を由らしむべし」とは先ず以て民衆を信頼させよ、政治というもの、政治家というものは、何よりも民衆の信頼が第一だということで、この場合のべしは「・・・・せしめよ」という命令のべしである。又、「之を知らしむべからず」のべしは、可能・不可能のべしで、知らせることは出来ない、理解させることは難しいという意味である。
 取り敢えず民衆が、何だかよくわからぬけれども、あの人の言うことだから間違いなかろう、自分はあの人を信頼してついてゆくのだ、という風にもってゆくのが政治だと、これは政治家に与えた教訓であって、決して民衆に加えた批評ではない。
 「馬鹿殿」という語、これは本来は賛辞なのです。殿さまというものには、内には世話のやける領民の外に、大ぜいの厄介な家来を抱え、そうして外には幕府という絶対権力者を戴(いただ)いて、一日として心の休まる時がない、下手をすると、いつ取り潰(つぶ)されるかわからない。そういう内外の苦境の中にあって、殿さまとしてやってゆくには、利口になってはいけない。わかってもわからぬような顔をして、よほど馬鹿にならぬとつとまらない。
 つまり甯武子の愚になって、馬鹿殿になって、初めて明君たり得るのです。

 八 周公旦と蘧伯玉
 孔子の理想像―周公旦
 孔子が一番理想としたのは、周の革命・建設の偉大な指導者であった周公旦であります。孔子は人間的・政治的理想を周公旦にかけたわけであります。
 子曰、其矣、吾衰也。久矣、吾不復夢見周公也。
 子曰く、甚だしいかな、吾が衰へたるや。久しきかな、吾れ復(また)夢に周公を見ざるなり。
 孔子が言われた、「何と甚だしいことだ、わたしの衰えたのも。もう随分久しいなあ、私が最早(もはや)夢に周公を見なくなってから」。
 ヨーロッパ人は理想というものを前にかける、未来に描く。これがユートピアであり、イメージ・ビジョンというものです。
 ところが東洋人は、勿論われわれ日本人もその傾向が強いのでありますが、特に東洋人の代表である漢族は、ただ単に理想を前にかける、次代に望む、というだけでは満足出来ない。ユートピアであればあるほど、イメージ・ビジョンであればあるほど、それはすでに自分達の偉大な祖先によって実現されたもの、試験済みのもの、と観念したい、そういう要望を持つ、過去を通じて未来を考えておるのです。
 孔子という人は、本当に真剣な理想追求の人であり、又真剣な求道者であった。
孔子が周公を終始夢に見ておったということは、言い換えれば孔子という人は、如何に熱烈に民族・人類のユートピア、今日の言葉で言うならば、究極の社会というものを描いておったか、その実現に思いを凝(こ)らしておったか、ということであります。

 もう一つ『論語』の中で周公に関して逸することの出来ない文章があります。
 子曰、如有周公之才之美、使驕且吝、其餘不足観也已矣。
 子曰く、如(も)し周公の才の美有りとも、驕(きょう)且つ吝(りん)ならしめば、其の余は観るに足らざるのみ。
 孔子が言われた、「たとい周公のような才能の美があっても、人に驕り且つ吝嗇(りんしょく)であったならば、その外のことは観るまでもない」。
孔子の人間というものに下された力強い断案であります。如何に孔子の見識が的確であり、又徹底しておったか、ということがよくわかる。
周公のような人間の理想、革命・建設の大いなる経綸(けいりん)(治め整える)・手腕を具(そな)えた偉大な人間であっても、驕且つ吝ならしめば駄目になってしまう。その余は論ずるに足らぬ。

 哲人宰相・蘧伯玉
 最後にもう一人、孔子の先輩で是非みなさんにご紹介したい哲人宰相がある。それは衛の大夫・蘧(きょ)伯(はく)玉(ぎょく)です。孔子は蘧伯玉に対しても並々ならぬ敬意を懐いておる。
 蘧伯玉使人於孔子。孔子與之坐而問焉、何為曰夫子。對曰、夫子欲寡其過而未能也。使者出。子曰、使乎使乎。
 蘧伯玉、人を孔子に使いす。孔子、之に坐を与えて問ふて曰く、夫子何をか為す。対へて曰く、夫子は其の過(あやまち)を寡(すくな)くせんと欲して未だ能はざるなり。
使者出づ。子曰く、使なるかな使なるかな。
 蘧伯玉が孔子の許(もと)へ使者を出した。孔子は使者を座につかせて問うた、「夫子(蘧伯玉先生)は、どうしておられますか」。答えて言う、「先生は自分の過の少なからんことを欲して未だ出来ないでおります」。使者が退出すると、孔子が言われた、「立派な使者だね、立派な使者だね」。
 蘧伯玉が使いに出すだけあって、使者も立派なものであります。過ちのないようにと常にわが身を反省する主人蘧伯玉の人柄をよく弁えて、答えるにもそつがない。
 その孔子も感嘆する蘧伯玉の反省振りを最もよく言い表しておるのが『准(え)南子(なんじ)』の、蘧伯玉は、「行年(こうねん)五十にして四十九の非を知る」「六十にして六十化す」
という語であります。非を知るということは否定することである。四十九年間の今までの生涯は駄目であった、と一応抹殺してしまうわけです。非を知り、否定し去って、初めて新しくやり直すことが出来る。蘧伯玉という人は五十になって、猶(なお)新規にやり直し出来た人であったということです。またそういう人であるから、「六十にして六十かす」、六十になったら六十になっただけの変化をする。幾歳になっても、新鮮溌剌(はつらつ)としておる。

 九 孔門十哲
(一) 子路
四科十哲
孔子の門下生と言えば、『論語』中最も多く出て来るのが子(し)路(ろ)であります。子路は姓を仲(ちゅう)と言い、名は由(ゆう)、子路は字(あざな)であります。又別の字を季路とも言う。
 四科十哲
 徳行(徳が高くて、行が立派なこと)
   顔淵・閔子騫(びんしけん)・冉(ぜん)伯(はく)牛(ぎゅう)・仲弓
 言語(特に社会的、政治的な思想・言論)
   宰(さい)我(が)・子(し)貢(こう)
政事 (政治活動)
  冉(ぜん)有(ゆう)・季路
文学 (学問・教養)
  子遊(しゆう)・子夏
これが四科十哲でありまして、子路は季路の名で冉(ぜん)有(ゆう)と共に政治活動の代表に挙げられておる。
『論語』の中で子路に関して最初に出て来るのが為政篇であります。
 子曰、由、誨女知之乎。知之為知之、不知為不知、是知也。
 子曰く、由や、女(なんじ)(汝に同じ)に之を知るを誨(おし)えんか。之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らざると為す、是れ知るなり。
 孔子が言われた、「由や、汝に本当の意味の知るということを教えようか。知っておることは知っておるとなし、知らないことは知らないとなす、これが知るということの意味である」。

 破れた綿入れを平気で着る
 子路の人物、性格を最もよく表しておるのが、副論語と言われる『孔子家語(こうしけご)』の「火烈にして剛直、性、鄙にして変通に達せず」という語であります。
きびきびして剛直であるが、品性が野暮(やぼ)ったくて洗練されたところがなく、物事の変化がわからないというのです。世の中というものは、裏もあれば、表もあって、変化極まりないが、子路にはその変化がわからなかった。つまり子路という人は、融通のきかない一本調子なところがあったわけです。
 子曰、衣敞縕袍、與衣狐貉者立而不恥者、其由也與。
 子曰く、敞(やぶ)れたる縕袍(おんぽう)を衣(き)、狐(こ)貉(かく)を衣たる者と立ちて恥じざる者は、其れ由か。
 孔子が言われた、「破れたよれよれの綿入れを着て、豪華な毛皮の服を着た人と竝(なら)んで一向恥ずかしがらぬ者は、先ず由だろうね」と。
子路という人は、身なり・服装には一向に無頓着で豪放(ごうほう)磊落(らいらく)な人であった。

 材を取るところなし
子曰、道不行、乗桴浮干海。従我者其由也與。子路聞之喜。子曰、由也、好男過我。無所取材。
子曰く、道行はれず、桴(いかだ)に乗って海に浮かばん。我に従はん者は、其れ由か。子路之を聞いて喜ぶ。
孔子が言われた、「道が行われない。いっそのこといかだ-船にでも乗って海上に出たい。そういう時にわたしについて来る者は先ず由であろうな」。
 子路はこれを聞いて喜んだ。先生はそこまで私を信じてくれておるか、というわけで子路はよほど嬉しかったとみえる。ところが孔子も人が悪い。
「由はそういう勇ましいことを好むことはわたしより上である。が、それではそのいかだをどうして仕立てるかとなると、子路にはそのてだてがない」。

 書を読むばかりが学問ではない
 子路使子羔為費宰。子曰、賊夫人之子。子路曰、有民人焉、有社稷焉、何必讀書然後為學。子曰、是故悪夫侫者。
 子路、子羔(しこう)をして費の宰(さい)たらしむ。子曰く、夫(か)の人の子を賊(そこな)はん。子路曰く、民人有り、社稷(しゃしょく)有り、何ぞ必ずしも書を読みて然る後(のち)学と為さん。
子曰く、是の故に夫の侫者(ねいじゃ)を悪(にく)む。
 これは子路が孔子の推薦で、当時の魯の国の実力者・季氏に仕えて、そこの或る長官をしておった時の話であります。
子路が子羔という若者を費というところの長官に任用した。孔子が「(いっぺんにそういう地位につかせると)まだまだ修養しなければならぬ未熟な人の子を駄目にしてしまう」と言われた。
 そこで子路が「人民もあれば社稷(社は土地の神、稷は五穀の神、国家・社会を意味する)もあります。何も書物を読むばかりが学問ではありますまい」。
実践活動の中でも学問は出来るというわけです。「それだから口の達者な人間はいかん」。
 こういうふうに子路は時々孔子とぶつかる。それにしても、本を読むばかりが学問ではない、とは子路らしい。
これについて『論語』に又よい注釈がある。

 君子の道は難し
 子路問君子。子曰、脩己以敬。曰如斯而已乎。曰脩己以安人。曰如斯而已乎。曰脩己以安百姓。脩己以安百姓、堯舜其猶病諸。
 子路、君子を問ふ。子曰く、己を脩(おさ)めて以て敬す。曰く、斯くの如きのみか。曰く、己を脩めて以て人を安んず。曰く、斯くの如きのみか。己を脩めて以て百姓を安んず。己を脩めて以て百姓を安んずるは、堯(ぎょう)・舜(しゅん)も其れ猶諸(これ)れ病(や)めり。
子路が君子のことを尋ねた。-君子には大きく分けて二つの意味がある。一つは、民衆に対して指導的立場にある人。今一つは、その立場に相応(ふさわ)しい人格
・ 教養を持った人。普通はこの二つを含めて君子と言うておる。-「己を修めて以て敬することである」。
敬ということは大変大事な問題でありますが、もともとあまり学問・修養というようなことの好きではない子路には、その大事さがわからない。それよりも実践活動をやる方が面白い。だから「それだけですか」。「己を修めると同時に、外を安心・立命させることである」。ここまではまだ道徳・修養の段階ですから、子路も満足しない。「それだけですか」。「己を修めて、そうして天下万民を安心・立命させることである」。
天下万民を救うのでなければ、君子たる値打ちはない。
 ところがこう間髪を入れずこう言われた、「己を修めて以て天下万民を安心・立命させることは、理想の天子といわれる堯・舜のような聖人でも病気になるほど苦しんだ」。お前が考えているような簡単なことではないのだというわけです。

 倦むことなかれ
 子路問政。子曰、先之勞之。請益。曰、無倦。
 子路、政を問ふ。子曰く、之に先んじ之を労す。益を請ふ。曰く、倦(う)むこと無かれ。
 子路が政治についてお尋ねした。孔子言う、「先頭に立って骨を折ること、ねぎらうことである」。政治家というものは、何よりも先ず民衆の先頭に立って骨を折らなければいけない。そうして彼等をねぎらうことを忘れてはいけない。「もっとありませんか」。孔子は「倦むこと無かれ」、途中で嫌になってはいかんぞと言われた。この「倦むこと無かれ」という語は、意味深遠というか、情理不尽というか、まことに味わいの深い言葉であります。

 (ニ)顔回
 名と字
 顔回-顔淵は、回は名、淵は字(あざな)であります。

 親の代からの貧乏
 顔回というと、非常に偉い人であったということと同時に大変貧乏で、然もその貧乏を一向気にすることなく超然としておった。それも親の代からの貧乏であります。お父さんの顔由(ゆう)は極めて恬淡(てんたん)な人で、それだけ貧乏をしたらしい。顔回は孔子より三十ほど若かったが、孔子よりも先に四十二歳で死んでおる。
 二十歳代の頃から頭が真っ白であったと言われておりますが、或いは貧乏のために栄養失調で白くなったのかもしれません。本当に立派な人で、その偉大さは篤実な人柄と相(あい)待(ま)って、味わえば味わうほど妙味のある人でありまして、これは修養もさることながら、天分も大いに与(あずか)ったと思われる。

 あたかも愚物の如し
 子曰、吾與回言終日、不違如愚。退而省其私、亦足以發。回也不愚。
 子曰く、吾、回と言ふこと終日、違(たが)はざること愚なるが如し。退きて其の私を省(せい)すれば、亦以て発するに足る。回や愚ならず。
 孔子が言われた、「回と終日話をしておっても、意見が違ったりすることが少しもなく、その従順なことは愚人のようである。しかし退いた後の彼の私生活振りをみると、大いに啓発するに足るものがある。回は決して愚ではない」。

 顔回のみた孔子像
 顔淵喟然嘆曰、仰之弥高、鑚之弥堅。瞻之在前、忽焉在後。夫子循循然善誘人。博我以文、約我以禮。欲罷不能。既竭吾才。如有所立卓爾。雖欲従之、末由也已。
 顔淵、喟(き)然(ぜん)として嘆じて曰く、之を仰げば弥(いよいよ)高く、之を鑚(き)れば弥堅し。之を瞻(み)るに前に在り、忽焉(こつえん)として後に在り。夫子(ふうし)循(じゅん)循然(ぜん)として善く人を誘(いざな)う。
我を博むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす。罷(や)めんと欲すれども能はず。既に吾が才を竭(つく)す。立つ所有りて卓(たく)爾(じ)たるが如し。之に従はんと欲すと雖も、由(よし)末(な)きのみ。
 顔回が如何にも感にたえぬといった様子でこういった。
「(孔子という方は)仰げば仰ぐほどいよいよ高くて到底及ぶべくもない。切れば切るほどいよいよ堅くて歯が立たない。前におられるかと思うと忽ち後におられる。そうして先生は身近におられて順序よく上手に人を導かれる。学問を以てわたくしを博く通ぜしめ、それが散漫にならぬように礼を以てわたくしを統制させて下さる。止めようと思っても止めることは出来ない。
 すでにわたくしは自分のありったけの才能を尽くして先生について勉強してきた。しかしやっと追いついたかなと思うと、もう先生は及びもつかないような高いところに立っておられる。何とかついてゆこうと思っても、どうにもならない」。

 心の通い合う子弟
 子畏於匡。顔淵後。子曰、吾以女為死矣。曰、子在、回何敢死。
 子、匡(きょう)に畏(い)す。顔淵後(おく)る。子曰く、吾、女(なんじ)を以て死せりと為す。曰く、子在(いま)す、回何ぞ敢えて死せん。
 孔子が匡というところで危難に遇(あ)われた。その時顔回が後れて来た。孔子が「わしはお前が死んだんだと思ったよ」と言われると、顔回がこう答えた。「先生が生きておられるのに、どうして私が死んだり致しましょう」。

 孔子の顔回礼讃
 哀公問曰、弟子孰爲好學。孔子對曰、有顔回者、好學、不遷怒、不貳過。不幸短命死矣。今也則亡。未聞好學者也。
 哀公問うて曰く、弟子、孰(たれ)か学を好むと為す。孔子対へて曰く、顔回なる者有り、学を好み、怒を遷さず、過を弐(ふた)たびせず。不幸、短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり。
 魯の哀公が孔子に「弟子の中で誰が学問を好みますか」と訊ねた。孔子答えて言う、「顔回というものがおりました。学問を好み、怒りを他に移す、すなわち腹立ちまぎれに他に当るようなことはなく、過ちを再び繰り返すことがなかった。不幸、短命にして死し、今はおりません。其の外に私はまだ本当に学問を好むというものを聞いたことがありません」。
 子曰、賢哉回也。一箪食、一錨瓢飲、在陋巷。人不堪其憂、回也不改其樂。賢哉回也。
 子曰く、賢なるかな回や。一箪(たん)の食(し)、一瓢(びょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)に在り。人は其の憂に堪へず、回や其の樂(たのしみ)を改めず。賢なるかな回や。
孔子が言われた、「賢人なるかな回は、わりご一杯のめしと、ひさご一杯の飲み物だけで、然も狭くていぶせき(むさくるしい)路地暮らしをしておる。他の人ならばつらい貧乏暮らしに堪えられないだろうに、回はその中にあって自分の楽しみを改めようとしない。えらいものだ、回という人間は」。

 人から馬鹿にされても仕返しをしなかった
顔回に就(つ)いてもう一つ、回よりずっと後輩であるけれども、これが又顔回の生まれ変わりと言うか、別の骨肉と言うてもよいような曾参(そうしん)が、こういうことを言っておる。
曾子曰、以能間於不能、以多問於寡、有若無、實若虚、犯而不校。昔者吾友、嘗従事於斯矣。
曾子曰く、能を以て不能に問ひ、多を以て寡に問ひ、有れども無きが若(ごと)く、実(み)つれども虚(むな)しきが若く、犯されても校(むく)ゐず。昔者(さきに)吾が友、嘗(かつ)て斯(ここ)に従事せり。
誰とは名を書いてはおらぬけれども、顔回であることは明白であります。
曾子言う、「自分は才能がありながら、ないものに問い、いろいろと知っておることが豊かであるのに、少ないものに問い、有っても無きが如く、充実しておりながら空っぽの如く、人から犯されても仕返しをしない。昔、自分の友達にそういうことに努め励んだものがおった(だが、もうその人は死んでおらない)」。
よく出来る人間が出来ない人間に訊く、などということは、なかなか出来ることではない。更にもっと難しいのは、人からばかにされて、これにしっぺ返しをしないことである。これはよほど出来た人でなければ出来ません。

 人間につきものの悪の存在
特に「犯されても校ゐず」という語は深い意味がある。
不幸にして人間の世界には、「悪」というものの存在を免れることは出来ません。少なくとも現在の時点に於て、悪は人を悩ます問題である。われわれは善を行うよりも前に、先ず悪と取り組むことで悩んでおるわけであります。

悪は刺激的・攻撃的である
然も悪は非常に強いものである。膳は、天地・自然の理法として、何事によらず絶えず己を看ることを本旨とする。が、反省的であることはまことによいのだけれども、凡人の常として、そのためにどうしても引っ込み思案になり、傍観的になりがちである。それに対し悪は、何事によらず攻撃的で、人を責める。そうして相手が手強(てごわ)いほど、攻撃力が強くなる。従って悪の人に与える刺激は、善のそれよりもはるかに強い。

 悪ほどよく団結する
又悪は必要の前にはよく団結する。だから一人でも、“あいつは悪党だ”と言う。善人という語はあるが善党という語はない。それだけ悪人は団結力をもっておるわけです。
「明哲(めいてつ)保身(ほしん)」という語があります。善人でも本当に出来た人は、むざむざ悪党の手に引っかかるようなことがなくて、身を完(まっと)うする、というのが本当の意味である。だから悪党の手にかかるというのは、善人ではあるが愚かだということになる。

 生じいほとけ心は却って悪を増長させる
そこで問題は、悪というものに如何に対するや、ということでありますが、人間の悪に対する態度、或いは在り方というものをつきつめると、凡そ五つの型がある。
第一、 弱肉強食型。泣き寝入り型と言うても宜しい。長いものには巻かれろというわけで、あきらめて泣き寝入りしてしまう態度。
第二、 復習型。殴られたら殴り返す、蹴られたら蹴り返す、という暴力的態度。これは野蛮で、人間としては確かに低級である。然し「一寸の虫にも五分の魂」で如何なる弱者と誰も人間である以上、気概もあれば、憎しみ・怨みもあるわけで、第一の意気地ない態度に較べると、まだ元気があるというべきです。
第三、 偽善型。蹴られても蹴り返すことの出来ぬ人間が、己が良心の呵責(かしゃく)やら、負け惜しみ、更には人前を恥じてこれを繕(つくろ)わんとするコンプレックスから、立派な理由をつけてその意気地なさをごまかそうとする。他人ばかりか、そもそも自分自身をごまかしておる。これが人を誤り、世を乱(みだ)る。
第四、 宗教型。俗世間の一切を超越して、すべてを平等に慈愛の目で視(み)るという態度。これは人間として最も尊い在り方であるが、然し人間の中の極めて少ない勝(すぐ)れた人達にして初めて到達し得る境地であって、到底われわれ凡人に出来ることではない。
第五、 神武型。人間の道を重んずるが故に、悪をにくんで断固としてこれを封ずるという態度。『論語』にも孔子が「惟だ仁者のみ能を人を好み、能く人を悪む」、ただ仁者だけが本当に人を愛することが出来、人を悪むことが出来る、と言うておりますが、人を悪むと言っても、人間を悪むのではない、その人間の行う悪をにくむのである。「武」も亦然り。その人間を憐れんで、悪から解放してやるのである。それが武というものです。         
だから武という字は、ほこを止=とどむと書く。そうしてその人間が悪を悔いて改心する時には、心からすべてを赦(ゆる)してやる。これを「尚武(しょうぶ)」或いは「神武」と言う。
 以上の五つが悪に対する態度・在り方でありますが、こういうことをはっきり心得ておれば、つまらぬ思想や議論に惑わされることもない。それこそ顔回のように「犯されて校ゐず」で、そういうものを相手にすることが馬鹿らしくなる。

(三) 子貢
 頭が良くて孔子門下一番の金持ち
孔子の弟子の中でも特色のある一人は、宰(さい)我(が)と共に「言語」-言論の代表として挙げられておる子(し)貢(こう)であります。
 子貢は、姓は端(たん)木(ぼく)、名は賜(し)と言い、子貢は字であります。なかなか理財にも長けておった。大体孔子の弟子は貧乏なのでありますが、子貢は例外で、金儲けもうまかった。
 然し彼は他の相場師と違って、儲けた金をよく使った。第一に師匠の孔子に貢いだ。又子貢はよく政治にも使った。そのために彼は当時の名士になった。要するに頭が良かったわけです。孔子もその頭の良いのを褒めておられる。
 子貢曰、貧而無謟、富而無驕、如何。子曰、可也。未若貧而樂道、富而好禮者也。子貢曰、詩云、如切如磋、如琢如磨、其斯之謂與。子曰、賜也、始可與言詩已矣。告諸往知来者也。
 子貢曰く、貧にして諂(へつら)うこと無く、富みて驕(おご)ること無きは、如何(いかん)。子曰く、可なり。未だ貧にして道を楽しみ、富みて礼を好むものに若(しか)ざるなり。子貢曰く、詩に云ふ、切るが如く磋(さ)するが如く、琢するが如く磨するが如しとは、其れ之を謂ふか。子曰く、賜や、始めて与(とも)に詩を言ふべきのみ。諸(これ)に往(おう)を告げて来を知る者なり。
子貢が言った、「貧乏であっても人にへつらうことなく、金持ちであっても驕ることがないのは、いかがでしょうか(もうそれで立派な人と言えるでしょうか)」。孔子が言われた、「宜しい。然し、貧乏であっても道を楽しみ金持ちであっても礼を好む者には及ばない」。
そこで子貢が言った、「詩経に『玉を仕上げるのに、刃物で切り、やすりですり、更に椎(つち)やのみで手を入れ、磨きを入れるが如く、いよいよ修養に励んで立派にしてゆく』とあるのは、丁度今おっしゃったことを言うておるのですね」。
「賜(子貢)よ、それでこそ共に詩を語ることが出来るというものだ。過去の経験を教えると、それに基づいてちゃんと未来を察知するのだから・・・」

 政治家的素質を持った人
 それだけに子貢はなかなか政治家的素質があった。
 季康子問、仲由可使従政也與。子曰、由也果、於従政乎何有。曰、與賜也可使従政也曰、賜也達、於従政乎何有。曰、。與求也可使従政也曰、求也藝、於従政乎何有。
 季(き)康(こう)子(し)問ふ、仲(ちゅう)由(ゆう)は政に従はしむべきか。子曰く、由や果、政に従ふに於てか何か有らん。曰く、賜は政に従はしむべきか。曰く、賜や達、政に従ふに於て何か有らん。曰く、求は政に従はしむべきか。曰く、求や芸、政に従ふに於てか何か有らん。
 季康が訊ねた、「仲由(子路)は政治をとらせることが出来ますか」、孔子が言われた、「由は果断である。政治にたずさわっても、彼なら十分やれる」。「賜(子貢)は政治をとらせることが出来ますか」「賜は達、なかなか行き届いた人物である。政治にたずさわっても、彼なら十分やれる」。「求(由有)は政治をとらせることが出来ますか」「彼は才能がある。政治にたずさわっても彼なら十分にやれる」。
 孔子は、政治というものは別に難しいものではない、人間が出来ておりさえすればやれる。という考えを持っておられたことがわかります。

 言うより前に先ず行え
 然し子貢のような、頭がよくて、理財に長じたような人間は、得てして口が達者なものであります。子貢もその傾向があって、その点が少々孔子の気に入らない。孔子は、
「君子は言に訥(とつ)にして、行にことを欲す。(敏ならん『論語』里仁)」-(あまり口がまわると、どうしても侫になるから)言葉は訥がよい。然し実行・行動はきびきびと敏でなければならぬ―と言って「訥言敏行」ということを強調されておる。
 敏は今日で言うと、頭をフルに回転させるということです。孔子はその敏ということを重んじて、特に実行、行動に於て敏でなければならぬと力説された。そころが子貢はどうも少し口が達者である。それを誡(いまし)められたのが次の一節であります。
 子貢問君子。子曰、先行其言、而後従之。
 子貢、君子を問ふ。子曰く、先づ其の言を行ひ、而して後之に従ふ。
 子貢が君子というものについて尋ねた。すると孔子はこう言われた、「先ず言わんとすることを実行して、その後で言うことだ」。

 器と道
 所謂成功者、名士というような人は他を批評するのが好きでありまして、子貢も人物評をよくやった。これも孔子から誡(いまし)められておる。
 子貢問曰、賜也何如。子曰、女器也。曰、何器也、曰、瑚璉也。
 子貢問ふて曰く、賜や如何(いかん)。子曰く、女(なんじ)は器なり。曰く、何の器ぞや。曰く、瑚璉(これん)なり。
 子貢がこう言って訊ねた、「賜、つまり私などはどうでしょうか」「お前は器(うつわ)だ」「何の器ですか」「国家の大事な祭祀(さいし)に用いる立派な器だ(国家の大事な仕事に従事させることの出来る立派な人物だとの意)」。
 他人の批評をするくらいであるから、自分のことも気になるわけです。本文はちょっと読むと、大層褒められておるように思う。が、同時にこれは、未だ至らざることに対して戒めておられるのである。
「道・器の論」というて、宋代の儒学者が盛んに論じておることでありますが、器というものは用途によって限定されておる。瑚璉であろうが、茶碗であろうが、又それが如何に立派であろうが、便利であろうが、器はどこまでも器であって、無限ではない、自由ではない。
 これに対して道というものは、無限性、自由性を持っておる。従って道に達した人は、何に使うという限定がない、誠に自由自在で、何でも出来る。こういう人を道人と言う。そう意味において本文は、子貢は立派な器ではあるがまだ道に達しておらぬ、ということを孔子が言うておるわけであります。

 過ぎたるは及ばざるがごとし
 子貢問、師與商也孰賢乎。子曰、師也過、商也不及。曰、然則師愈與。子曰、過猶不及也。
 子貢問ふ、師と商は孰(いづれ)か賢(まさ)れる。子曰く、師や過ぎたり、商や及ばず。曰く、然らば則ち師は愈(まさ)れるか。子曰く、過ぎたるは猶及ばざるがごとし。
 師は子張、商は子夏のこと。子張は子貢と同様社会活動型の人物であり、子夏は学者肌の人物です。殊に子夏は長生きして、孔子の教えを弘めるのに大層役立った人であります。
 子貢が訊ねた、「師と商とではどちらが勝(まさ)っておるでしょうか」。「師は過ぎておる、商は及ばない」。「それでは師の方が勝っておるのでしょうか」。「過ぎたのは及ばないのと同じことである」。
 どちらかと言うと、過ぎたるよりは及ばざる方がよい、という意味が言外にあるわけです。

 好んで他を批評するも己の程を知る
 然し子貢は何でもよく出来る人でありますから、凡(ぼん)眼(がん)、俗人にもよくわかる。それで民衆の中には、孔子よりも子貢の方が偉いと思っておる者が随分とおったらしい。その一例が次の一節です。
 陳子禽謂子貢曰、子爲恭也。仲尼豈賢於子乎。子貢曰、君子一言以爲知、一言以爲不知。言不可不慎也。夫子之不可及也、猶天之不可階而升也。夫子(之)得邦家者、所謂立之斯立、道之斯行、綏之斯来、動之斯和。其生也栄、其死也哀。如之何可及也。
 陳子禽(ちんしきん)、子貢に謂ひて曰く、子は恭を為すなり。仲尼豈(あ)に子より賢(まさ)らんや。子貢曰く、君子は一言以て知と為し、一言以て不知と為す。言(げん)慎まざる可からざるなり。
 夫子(ふうし)の及ぶ可からざるや、猶天の階して升(のぼ)る可からざるごときなり。夫子にして(之)邦家を得ば、所謂之を立つれば斯(ここ)に立ち、之を道(みちび)けば斯に行き、之を
綏(やすん)ずれば斯に来り、之を動かせば斯に和す。其の生きるや栄え、其の死するや哀しむ。之を如何ぞ其れ及ぶ可けんや。
 陳子禽が子貢に向かって、「あなたは謙遜しておられる。仲尼(孔子)がどうしてあなたより勝れておりましょうか」と言ったところが、子貢はこう答えた。
「君子というものは、一言で知者とも為し、一言で不知者とも為すから、言葉は慎重でなければいけない。
先生が自分にとって及びもつかぬのは、丁度天がはしごをかけても上がれないのと同じことである。若し先生が国の政治をとることになれば、古の所謂『民の生計を立たしむれば速やかに立ち、これを導けば言われるままに随(したが)い、これを安んずれば四方より来たり服し、これを激励すればみな従いて共に和する』
で、生きておる時は栄え、死しては人々から悲しまれる。こういう先生にどうして私ごとき者が及ぶことが出来ようか」。

(四) 宰我
 孔子に見限られた気の毒な立場
宰子晝寝。子曰、朽木不可雕也。糞土之牆、不可杇也。於予與何誅。子曰、始吾於人也、聴其言而信其行。今吾於人也、聴其言而觀其行。於予與改是。
宰子、昼寝(い)ぬ。子曰く、朽木(きゅうぼく)は雕(ほ)る可からず。糞土(ふんど)の牆(しょう)は杇(ぬ)る可からず。予に於てか何ぞ誅(せ)めん。子曰く、始め吾(われ)人に於けるや、其の言を聴きて其の行
を観る。予に於てか是を改む。
宰子(宰我のこと。予は名、字は子我と言う)が昼間から寝ておった。孔子が言われた、「朽ちた木は彫刻の材料にはならない。汚穢(おわい)糞土の土塀は上塗りが
出来ない」。
又こうも言われた、「最初私が人に対するのに、言葉を聞いただけで行為まで信用した。然し今は人に対するのに、言葉を聞き更に行為まで観察する。宰予
のことがあってから改めたのである」。
 宰我は、心から孔子に服しておるのでありまして、そういうところから考えても良いところがたくさんあったに違いない。

(五) 曾参
 日に吾が身を三省す
曾参は弟子の中でも最年少で、孔子より46歳も若く、然も幸いにして長生きして70過ぎまで生きたので、孔子の道を後世に伝えるのに大いに貢献した。
曾参は、曾は姓で、参は名、字を子與(しよ)と言い、『孝経』は彼の弟子が師と孔子の問答を録したものと伝えられている。
 曾子曰、吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。與朋友交(言)而不信乎。傳不習乎。
 曾子曰く、吾(われ)日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交はりて(言うて)信ならざるか。伝へて習はざるか(習はざるを伝ふるか)。
 曾子言う、「自分は日に何度もわが身を反省する。人のために考え計って努力出来なかったのではないか。友と交わって誠実でなかったのではないか。(師より)伝えられてよくこれを習熟しなかったのではないか(或いは、よく習熟せぬことを人に伝えたのではないか)」。
三省の三は、数を表す三ではなくて、たびたびという意味です。「省」ということは本当に大事なことでありまして、人間万事「省」の一字に尽きると言うて宜しい。「省」は、かえりみると同時に、はぶくと読む。かえりみることによって、よけいなもの、道理に合わぬものがはっきりわかって、よくこれをはぶくことが出来るからである。
 人間はこれ(省)あるによって、生理的にも、精神的にも、初めて生き、且つ進むことが出来る。政治も亦然り。民衆の生活を自然のままにまかせておくと、混乱してどうにもならなくなってしまう。そこで民衆に代わって彼等の理性・良心となって、つまらぬものをかえりみてはぶいてやる。これが政治というものはです。
 だから昔から役所の下に、「省」の字がついてある。ところが後世になって役人が増え、仕事が増えるに従って、かえりみてはぶくことを忘れ、「省」が「冗」「擾(じょう)」になるものだから、悲劇を招く。

 父曾晳の人柄、この親にしてこの子あり
 さて曾参と言えば、曾参のお父さんの僧晳も立派な人であった。
 子路、曾晳、冉有、公西華侍坐。子曰、乎爾、以也無吾以吾一日長。居則曰、不吾知也。如或知爾則何以哉。
 子路率爾而對曰、千乗之國、攝乎大國之間、加之以師旅、因之以飢饉、由也為之、比及三年、可使有勇且知方也。
 夫子哂之。求爾何如。對曰、方六七十、如五六十、求也為之、比及三年、可使足民(也)、如其禮樂、以俟君子。
 赤爾何如。對曰、非曰能之(也)、願學焉。宗廟之事、如曾同、端章甫、願為小相焉。
 點爾何如。鼓瑟希、鏗爾舎瑟而作、對曰、異乎三子者之撰。曰、何傷乎、亦各言其志也。曰、莫春者春服既成、(得)冠者五六人、童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而歸。夫子喟然歎曰、吾與點也。
 三子者出。曾晳後、曾晳曰、夫三子者之言何如。子曰、亦各言其志也已矣。曰、夫子何晒由也。(子)曰、為國以禮、其言不譲、是故晒之、唯求則非邦也與、安見方六七十、如五六十而非邦也者、唯赤則非邦也與、宗廟(之事如)会同非諸侯而何。赤也為之小、孰能為之大(相)。
 子路、曾晳、冉(ぜん)有(ゆう)、公西華、侍(じ)坐(ざ)す。子曰く、吾(われ)一日爾(なんじ)に長ぜるを以て、吾を以てすること無かれ。居れば則ち曰く、吾を知らずと。如(も)し或は爾を知らば(知るあらば)則ち何を以てせんや。
 子路率(そつ)爾(じ)として対へて曰く、千乗の国、大国の間に摂して、之に加ふるに師旅を以てし、之に因るに飢饉を以てす。由(ゆう)や之を為(おさ)め、三年に及ぶ比(ここ)に、勇有りて且つ方を知らしむべきなり。
 夫子之を哂(わら)ふ。求(きゅう)や、爾は何如。対へて曰く、方の六七十、如(も)しくは五六十、求や之を為(おさ)め、三年に及ぶ比(ころ)に、民を足らしむべきなり。其の礼楽の如きは、以て君子を俟(ま)たん。
 赤(せき)や、爾は何如。対へて曰く、之を能くすと曰ふには非ず。願はくば学ばん。宗廟の事、もしくは会同に端(たん)章(しょう)甫(ほ)して(礼装して)願はくば小相(しょうしょう)為(た)らん。
 点(てん)や、爾は何如。瑟(しつ)を鼓すること希(や)み、鏗(こう)爾(じ)として瑟を舎(お)きて作(た)ち、対へて曰く、三子者の撰の異なる。子曰く、何ぞ傷(いた)まん。亦各々其の志を言ふなり。
曰く、暮春には春服既に成る。冠者五六人、童子六七人、沂(き)に浴(よく)し、舞雩(ぶう)に風し、詠じて帰らん。夫子喟(き)然(ぜん)として歎じて曰く、吾は点に与(くみ)せん。
 三子者出づ。曾晳後(おく)る。曾晳曰く、夫(か)の三子者の言は如何。子曰く、亦各々其の志の言ふのみ。曰く、夫子何ぞ由を哂ふ。曰く、国を為(おさ)むるには礼を以てす。其の言譲らず。是の故に之を哂ふ。唯(い)、求は則ち邦に非ざるか。安(いずく)んぞ方六七十、如(も)しくは五六十にして邦に非ざる者を見ん。唯、赤は則ち邦に非ざるか。宗廟会同は諸侯に非ずして何ぞ。赤や之が小相たらば、孰(たれ)か能く之が大たらん。
 子路、曾晳、冉有、公西華の四人の弟子が孔子の側に侍っておった。孔子が言われた、「わたしがお前達よりわずか年長であるからといって、遠慮することはない。お前達は常日頃、自分を知ってくれないと言うておるが、若し誰かがお前達を知ってくれたら、一体何を以てこれに応えるか」。すると、
 子路がやにわにこう言った、「兵車千台を出す国が大国の間にはさまれ、加うるに戦争が起こって、更に飢饉が重なるという時に、由-この私がその国を治むれば、三年もたつ頃には、その民をして勇気あり、且つ道を知らしめることが出来ます」。孔子はこの言葉を聞いて笑われた。
「求や、お前はどうだ」「六、七十里か五、六十里四方の小さな国をこの私が治むれば、三年もすれば民を富ましめることが出来ます。然し礼楽のことは(自分には出来ないから)立派な君子にまかせます」。
「赤(公西華)や、お前はどうだ」「はい、私はよく為し得るというのではなくて、学びたいのです。宗廟の祭祀の事や、諸侯の会合などには、玄端黒色の礼服、章甫の礼冠を著(つ)けて、いささかの助け役になりたいのです」。
「点(曾晳)や、お前はどうだ」。「私は三者の言われたような立派なのと違います」「いや、何でもかまわぬ。それぞれの志を述べただけのことだ」「もう春も終わりの頃、すでに春着も出来ています。それを着て、元服(成人式)の済んだ若者五、六人、童子六、七人を連れて沂(きん)水(すい)のほとりで浴し、雨乞いをする高台で涼風に当たって、詩を吟じながら家に帰って来る(これが私の平生願うところです)」。これを聞いて孔子は如何にも感に堪えぬといった様子で言われた、「私は点に賛成する」。
 三人が退室して、曾晳が後に残った。曾晳言う、「かの三人の言うところは如何ですか」。孔子が言われた、「亦各々の志を言うだけだった」「それでは先生は何故由の言うことを笑われるのですか」「国を治めるには礼を以てすべきであるのに、その言葉は謙譲なところがなくれ礼を失しておる。そのために笑ったのである。求の場合も邦ではないか。どうして六、七十里乃至五、六十里四方もあって、邦でないものがあろうか。赤がいささかの助役になるというのならば、誰が大役になることが出来ようか」。
 曾参のお父さんの人柄がよくわかる。

 あたかも魯なるが如し
 柴也愚、参也魯、師也辟、由也喭。
 柴(さい)や愚、参や魯、師や辟(へき)、由や喭(がん)。
 孔子が言われた、「柴(子羔(しこう))は馬鹿正直、参(曾参)は血のめぐりが悪い、師(子張)は偏(かたよ)って中正を欠く、由(子路)は口やかましくて粗暴である」。
 曾参は性格が内省的で、節度があったのは当然であるが、反面又非常に直覚の勝れた人でもあった。

 夫子の道
 子曰、参乎、吾道一以貫之哉。曾子曰く、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣。
 子曰く、参や、吾が道は一(いつ)以て之を貫(つらぬ)く(或いはおこなう)。
曾子曰く、「唯」。子出づ。門人問ふて曰く、何の謂ぞや。曾子曰く、夫子の道は忠恕のみ。
孔子が言われた、「参や、吾が道は一以て貫いておる」。
 曾子言う、「はい」。孔子が退出された後、門人が曾子に訊いた、「どういう意味ですか」。「先生の道は忠怒-造化の心そのままに理想に向かって限り無く進歩向上してゆくだけである」。
 忠恕の「忠」とは文字通り中する心で、限り無く進歩向上する心が忠である。弁証法的進歩、つまり相対立するものを統一し止揚(しよう)して、限り無く進歩向上してゆくことである。
 同様に「恕」は、心と如-恕の旁(つくり)は口(くち)ではなくて領域・世界を表す口で、女の領域・女の世界、転じて天地・自然・造化を意味する。-造化そのままに進んでゆくことである。ゆくでわからなければ、来るでもよい。則ち如来である。何故女の世界が天地・自然・造化であるか。最も簡単明瞭に言えば、造化が万物を生む如く、女は子を生み育てる。
 一休和尚が、
  女をば法(のり)のみくら(御座)といふぞげに
     釈迦も達磨もひょいひょいと出る
 という名高い歌を詠んでおりますが、確かに女は造化そのものであります。然も造化は大きな愛、大きな慈悲を以てすべてを包容してゆく。そこで恕をゆるすとも読む。これを要するに、理想に向かって限り無く進む方を「忠」、包容してゆく方を「恕」で表し、結んで「忠恕」と言うておるわけであります。

 千万人と雖も吾れ往かん
 曾参は魯なりと雖(いえど)も、その勝れた直覚で孔子の道はちゃんと受け取っておった。同時にこの人は特に気節のあった人であります。
それは『孟子』「公孫(こうそん)丑(ちゅう)上」の曾子の言葉として、「子・勇を好むか。吾嘗て大勇を夫子に聞けり。自ら反(かえり)みて縮(なお)からずんば、褐(かつ)寛(かん)博(ぱく)(粗毛の布や、だぶだぶの着物で、共に身分の卑しい者の著る衣服、転じて賤者の意)と雖も、吾惴(おそ)れざらんや。自ら反みて縮くんば、千万人と雖も吾れ往かん」と言うてあるのをみてもよくわかります。
 又曾参という人は大層親孝行であった。「孔子や曾子の家の子は、人を罵ったり、忿(いか)ったりすることを知らない。


 日本と儒教
 日本民族には創造力がないか
 日本は古来、儒教、ついで仏教と、この二教を最も取り入れて参りました。それで明治以降後、特に大正になりましてより、西洋万能の思想・風潮が盛んになるにつれて、日本には独自の、独特の文化がない、皆輸入品である、借り物である、というような考え方・議論が盛んに横行するようになりました。つまり儒教も仏教も、みな輸入品であって、日本民族は文化的に独創性・創造力がない、というのがその主張であります。しかしこれは大きな間違いであります。

 陶鋳力の権化-惟神道
 ご承知のように日本には、「惟(かん)神道(ながらのみち)」-というものがありまして、実はこの惟神道ぐらい偉大なクリエイターと言うか、クリエイティブな力に富んだ、創造力を持ったものはないのであります。それは世上理解しておるような単なる、個性とか、特色とか、いうようなものではない。そういうものをはるかに超越した、正に天の虚(むな)しきが如く広大な、包容力・陶(とう)鋳力(ちゅうりょく)を持った、それこそ創造力の権化(ごんげ)ともいうべきものであります。
一つの大きな創造力―クリエイティブ・パワーでありまして、これあることによって日本は、こうして存続し、繁栄して参ったのであります。

 民衆の生活に深く滲み込んだ儒教
 中でも日本に最も大きい影響、というよりは、栄養になりましたのは、第一に儒教、その次に仏教であります。この二教が日本にどれだけ滲透(しんとう)しておるかという事は、日本人が日常何気なく使っておる言葉や文章等を注意して調べてみると、よくわかるのでありますが、何でもない一般の民衆が、もう本当に驚くべき専門用語を平気で使っております。しかもよくこなされておる。今日の言葉で言うと、マスターされておる。
 例えば「元気」という語。もともと元気とは、易の根本思想を表す重要な専門用語で、『易経』-乾(けん)の卦-から出ておるのであります。民衆はそういう難しいことは知らないで、平気で使っておる。
 「挨拶」という語にしても、意味も文字そのものも難しいけれども、みな使っておる。また、人間とはなんぞや、人格とは何ぞや、ということを論じたりする時に、骨力だの気節だの節操だの、見識だの、器量・器度・器識だの、或いは風格・風韻(ふういん)だの、と難しい言葉がいとも簡単に使われる。これはまことに驚くべきことであると同時に、仏教の影響もさることながら、儒教の日本人に及ぼした影響が如何に大きなものであるか、ということが今更のように認識させられるのであります。

 文字が乱れるとすべてが乱れる-経世済民
 また従って、その一番の根本である文字(昔は漢字と言いました)が、どれだけ日本人の精神・思想・文化を培養したか、本当に量(はか)りしれないものがあります。その意味において、われわれは文字を大事にしなければならぬのでありますが、戦後それを誤って、文部省自らの浅ははかな考えによって、一時滅茶苦茶に致しました。漸(ようや)くこの頃になって、その非を悟り、旧に戻しつつあることは、当然の事乍(なが)ら喜ばしい限りであります。文字を大事にすることは、即ち言葉や文章を大事にすることであり、精神・行動を大事にすることに外ならない。従って文字が乱れると、すべてが乱れて参ります。
 その好い例が経済です。これは儒教の「経世済民」をつづめたものでありますが、戦後、日本人はその真義を忘れて、全く私事に解し、経済万能でやって来ました。その結果、ご承知のようにふとしたきっかけから、今日のような混乱に陥っておるわけです。間違ったという点では学校にも責任があります。
 私共が学校におりました時分は、経済はポリティカル・エコノミーと言ったのでありますが、戦後、それがいつの間にか、ポリティカルを落として、単なるエコノミックスになってしまった。然し今日は政治を離れて経済というものは到底考えられないのであります。それも世界政治の影響を受ける。
いずれにしても経済というものは、ただ金を儲けるというだけでなくて、儒教の語の通り経世済民でなければならないのであります。

 本富・末富・姦富
 儒教を学ぶ人間で読まざるものがない書物の一つに『史記』があります。その史記の貨殖(かしょく)伝をみると、富というものを「本富・末富・姦(かん)富(ぷ)」の三つに分けて、富はどこまでも本富でなければならぬと説いておる。
 戦後日本人はその本富を忘れて、ひたすら末富を追った。それが難しくなると、今度は悪智慧を働かせて、姦富をほしいままにするようになった。その姦・末の祟(たた)りが今日の経済の窮迫・混乱になったわけでありまして、儒教の上から言えば、われわれは何十年来指摘されて来たことであります。
 しかし別に史記の文章を待つまでもなく、「富」の文字がちゃんとそれを教えておる。富という字は宀(うかんむり・家)に、畐の字が書いてある。畐は収穫物・収益を積み重ねた意味であります。古代人は農耕と狩猟が主でありますから、下に田(田地・狩り場の意)を書いてある。
 また畐に示偏をつけると、即ち神に供えると、初めて「福」=ふくになる。逆に神を無視して、人間が貪(むさぼ)ると、人偏に畐=「偪」、せまる・しのぐ・たおれるという字になる。人間が欲望のままに収穫・所得を貪り追っかけると、最後は今日の日本のようにひっくり返るということです。
つまり土地の買い占めをやったり、GNPがいくらになったなどと言ってがつがつやっておると、結果はどうなるかということをこの字は表しておるわけです。

 今日の混乱を救う道は民族の精神・文化の伝統に返ることである
 こういう風に文字から始めて、文章、更にはその学問・思想、と少しく調べて参りますと、修身・斉家(さいか)・治国・平天下を旨とする儒教というものは、本当に怖いくらい人間の真実、心理を教えている。
 その儒教が仏教と相(あい)待(ま)って、日本精神・日本文化の最も古くからの伝統を為しておるのでありまして、またそれを学ぶのが学問の本筋というものであります。
 この本筋に返ることによって、日本は起(た)ち直ることが出来る、建て直すことも出来る。人間というものは、自らが痛い目に遇(あ)って、初めて真実がわかる。そうして本(もと)に返ることが出来るのです。これが所謂(いわゆる)活学というものであります。

C.ダグラス・ラミス著「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」

.17 2012 読書 comment(0) trackback(0)
C.ダグラス・ラミス著「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」
 はじめに
 21世紀へのコモンセンス
 今私たちは、決して変わらないかのようにみえる常識の大転換、つまり大多数の人が、「非常識」と判断しているものの考え方が主流の常識に取って代わる、そんな大変革の少し前の段階に生きているような気がする。

 では、なぜこのタイトルか?
 所得倍増論は政府によって1960年に提案されたが、それにはもう一つの、もっと奥行きのある豊かさを目指していた社会運動思想の代替物として、つまりその運動をつぶすために武器として提案されたと言うことを忘れてはならない。60年安保闘争が目指した豊かさには、経済的豊かさだけでなく、平和、民主主義(仕事場での民主主義も)、社会的平等、正義などが含まれていた。所得倍増論、つまり、社会の豊かさはGNPによって計られるものだという、貧弱な豊かさを求める論理は、当時の民衆闘争に対する政府の答えだった。「所得につながることにのみ現実性がある」という、経済発展理論の発想に疑問を投げかけるためにこのタイトルを選んだ。

 この本はどのような読者を想像しているのか?
 冷戦が終わり。「反戦」という当たり前の感性が左翼や○○思想とのみ関係あるものと思われる根拠はもうないだろう。それがただの普通の常識になってもいい時代になってきたのではないか。
・過労でくたびれた、あるいは労働現場の自由のなさに不満を感じている労働者。
・自分の畑の工場化が嫌いになった農民。
・「経済」という要素が自分の教育の自由の障害物になっていると感じている学生。
・広告産業が自分を馬鹿にしているのではないかと感じている消費者。
・戦争体験を覚えていて、今の日本政府の再軍備への突進にショックを感じている老人。
・戦争を体験したことはないが、これからも経験したくないと思っている若者。
・南北問題は「南」の問題というより、どちらかというと「北」の問題であるということに気づいた人。
・世界の自然が死滅しつつあるだけでなく、私たちがそれを殺しているという事実に気がついて悲しんでいる人。
・なんとなく危機感を感じているものの、それが何なのか漠然としてはっきり分からないという人。
これからどれくらいの数の人々が共通意識を持ったとき、その意識が「常識」へと変わっていくだろうか。

第一章 タイタニック現実主義

 1999年9月22日付の英字新聞『ジャパン・タイムス』の四面に、国連環境プログラムが『地球環境展望2000』という報告書を出したという記事があります。報告書には現在の地球環境がどれだけ危機的な状況かが書いてある。そして「先進工業国の資源消費を90%減らすことを目標にすべき」と提言している。
 次の経済面。五面に「日本経済は不景気から少し復活しはじめた」という記事があります。「99年8月の企業向け電気消費量が。98年より2.6%上がった」。これはGood Newsとして記事になっている。
 経済面のほうが「現実主義」といわれている。ビジネスとか政治の中では、国連報告のほうは、ユートピア主義のような、夢のような、非現実的な話というふうになってしまう。

 聞き飽きた警告
 先進工業国の政治家は万能薬として自由化を勧めていますが、その自由化が問題を悪化させていることは明らかです。
たとえば、NAFTA(北米自由貿易協定)によってアメリカの安いトウモロコシがメキシコに入ってきて、メキシコのトウモロコシ産業が破壊された。
そして、貿易の自由化ではなく、投資の自由化によって、世界一安い賃金を探す大企業による競争が、結果として先進工業国の実質賃金も下げています。
つまり投資の自由化は「搾取の自由化」と呼んでいいようなものです。
 また、冷戦が終わったから戦争の恐怖が減るだろうとみんな期待したのですが、実は減っていません。1989年から1998年までの10年間で108件の武力紛争が世界であった。内政干渉に対する国際法の強い禁制は弱まっていて、以前なら「侵略」と呼ばれた行為も、今は「人道介入」と呼ばれるようになってきています。
 そういうなかで日本政府の「現実主義者」たちは、周辺事態法を可決させたり、憲法調査会を作って憲法第9条の廃止を準備したり、日本の半世紀ぶりの戦争への直接参加をすさまじい勢いで準備している。
 ところが、それに対して何か徹底的な解決を探そうとすることは、なぜか非常識、非現実主義とされる。
 環境問題でいえば」、プラスチックごみと燃えるごみ、ビンやカンを分けるという程度のことは定着して、みんな、それを熱心にやっているんだけれども、この競争的で破壊的な消費文化を根本的に変えようではないかという話になると、それは非常識であると言われる。
今この地球という「タイタニック」に乗っている私たちは、氷山に向かっているということをすでに知っているのです。船内放送で何度も、「氷山にぶつか
るぞ」と言われているのです。やがて氷山にぶつかるということは知っているけれども、その氷山はまだ見えないし、現実的な話だとはなかなか理解しにくい。耳に入るけれども、それはまだ見えない。見えるのは、タイタニックという船だけなのです。

 誰もエンジンを止めようとしない
政治家や経済学者、ビジネスマンや銀行マン、そして経済発展を進めようとしているあらゆるエキスパート、その人たちが使っている方法、やり方は、そ
のシステムのなかではとても正常で論理的、現実的なわけです。でもタイタニックと同じように、そしてエイハブの船と同じように、その目的は狂っている。
つまり、われわれの政治経済システムの場合、氷山は将来待っているものではない。災難はもうすでに始まっていて、いわば次から次へと氷山にぶつかり始めているわけです。

 現実主義のススメ
 経済発展はこの半世紀のあいだに、世界の諸文化、自然環境に取り返しのつかないほどの被害を与えました。この世界規模の文化的・環境的災難は、この世界経済システムを続けていればいつか起こるだろう、という予測ではなく、今すでに起こっている現在進行中の「現実」なのです。
 現実主義者になろうと思うなら、まず第一に現実を見なければその資格は得られません。現実とはまず20世紀の歴史記録です。歴史と歴史が作った現状をしっかりと認識したうえで、どんな21世紀を作っていくか、それを考えなければならないのです。

第二章 「非常識」な憲法

経済援助や国連への参加、平和外交、ボランティア活動といった当たり前の要素だけでは不十分で、軍事力を使わなければ「国際貢献」とは言えない、という暗黙の前提があるようです。
 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
 「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
 しかし、日本政府はこの政策を今まで一度も実現しようとしたことがない。一貫してアメリカ軍が日本にいて、日本の軍事防衛をアメリカの軍事力に頼っている。「核の傘」のなかに入っている。だから、日本はまだ前文と第九条の平和主義を試したことはありません。日本政府は本当の意味での平和外交をやったことがないのです。
 最近、もうそろそろこの非常識な日本国憲法を変え、世界の常識に日本を合わせるべきであるという声が強くなってきました。つまり、戦争のできる国、軍事力のある「普通の」国として政策を変えるべきである。非現実的な憲法をやめ、現実主義に戻ろうではないか、と。
 この軍事力に関する「現実主義」がどんなものかというと、国家は交戦権を持つのが当たり前である。それが国家の本質であるということです。

 交戦権を放棄しても自衛権は残るか?
 「国の交戦権はこれを認めない」となっていますが、この「交戦権」とはどういうものなのか、交戦権を放棄しても自衛権は残る、というのなら、一体何を放棄したことになるのでしょうか。この論理で、放棄できるのは侵略する権利しかありません。交戦権は「侵略権」だという説になります。
 交戦権はそう意味のものではない。国連憲章ができて以来、国際法のなかで、国家には自衛権しか許されないのです。侵略されて、それに対して戦うという、そういう状況で初めて交戦権が成り立つのです。
 ある国が侵略されればそれを助けに行くという「集団的自衛権」も国際法で許されていますが、これも基本的には自衛権です。だから自衛戦争でなければ交戦権は成り立たない。つまり「自衛手段としての」交戦権を放棄するということなのです。

 交戦権は兵隊の「人権」
 交戦権というのは、戦争をすること自体の権利です。もっと具体的に言うと、戦争ならば、人を殺しても罪にならないという、特別な権利です。人を殺す権利です。1949年のジュネーブ協定では、「戦争法に従った兵隊」ならば、たとえ敵の兵隊を殺したとしても、捕まった場合、殺しても痛めつけてもいけない。裁判にかけ、起訴することも禁じられている。五分前にその兵隊が自分の仲間を殺しているのを目撃したとしても、捕虜として扱う義務があるのです。収容所に入れ、食べ物を与え、薬を与え、服を与えなければならない。ジュネーブ協定を読んで驚くのは、給料も与えよと書いてあることです。
そして戦争が終わったら無事に帰す義務がある。それが交戦権というもの、兵隊が人を殺す権利なのです。

 国家は「正当な暴力」を行使する
 ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーによる近代国家の定義が、政治学の主流のなかでかなり定着していると思います。彼に言わせると、近代国家の本質は、「正当な暴力」の独占を握っている、あるいは、握ろうとしている組織である。
 この「正当な暴力」には三種類あります。
一つは警察権です。二つ目は処罰権、そして三つ目が交戦権です。

 暴力が暴力でなくなる魔法
 国家が、つまり警察か裁判官か、あるいは兵隊が、「暴力」を使った場合、なぜかショッキングでなくなるということです。個人が同じ行為をした場合と違って、それをしたのが国家だと、なにかショックを感じなくなっているのです。そこには国家の魔法が働いているとしか思えません。

 国家に暴力を与えた結果
 政治権力の力学から考えても、国家権力は国民の支持(積極な支持であれ、消極的な承認であれ)によってできるものなのです。ですから国家に「正当な暴力」の権利があるとしたら、それは国民が国家に持たせたということになります。
なぜ持たせたかという理由は、国家がそれを使って私たちを守ってくれる、という期待があったからです。
 20世紀ほど暴力によって殺された人間の数の多かった百年間は、人類の歴史にありません。国家によって殺された人の数はこの百年で203,319,000、つまり2億人にのぼる。これにはナチ・ドイツが600万人やスターリン時代のソ連も統計に入っています。

 国家は国民を守ってくれない
 殺されているのは、外国人よりも自国民のほうが圧倒的に多いのです。ランメルによれば、先の国家によって殺された約2億人のうち、129,547,000、約1億3千万人が自国民だそうです。
 日本の他にもう一つ平和憲法を持っている国がコスタ・リカだというのは有名です。コスタ・リカの憲法も同じように軍隊を持たないと規定しているのですが、その成立の事情は日本の平和憲法とまったく違う。小さい国だから隣国を侵略するはずがない。つまり、軍部を作ればすぐに軍事クーデターを起こし独裁政権を作る。中南米の歴史はその繰り返しでした。だからコスタ・リカの人たちは軍部を作らないと決心した。作ったら国民をいじめるに決まっている。政府の国民に対する暴力を制限するために平和憲法を作ったのです。
 国家間の戦争があったとして、軍人が殺される数よりも、非戦闘員の死者の数の方が必ず多くなるわけです。
 ランメルはデモサイド(democide)という言葉を作りました。それは政府がわざと非武装の人々を殺すという意味です。デモサイドは戦争で敵の軍隊を殺すという、国際法で許された「正当な暴力」と違って、政府による明らかな殺人です。
ランメルによると、戦争で「正当に」殺された兵士の数よりも、民殺で殺された数が圧倒的に多い。国家に殺された2億人のうち、「正当な」戦死は34,021,000人ですが 、国家による民殺は169,198,000人、約5倍にものぼります。
 もう一つ、ランメルが統計で実証しているのが、政府が権威主義的であればあるほど、人を殺す数、特に民殺が多くなるということです。
けれども、忘れていけないのは、原子爆弾を落とした国は代表民主主義の国だけだということです。

 第九条は現実的な提案だった
 百年間、国家に人を殺す許可を与えた結果、その許可を使って、国家はこれだけ多くの人を殺した。考えてみれば当たり前かもしれない。「殺していい」と国民が言ったから国家はたくさん殺した、というわけです。その歴史を認め、考え直すのが本当の現実主義ではないか。
 日本国憲法第九条はロマン主義ではなく、ひじょうに現実主義的な提案だったと私は思います。それを考えたのはマッカーサーと幣原喜重郎だと言われますが、マッカーサーと幣原はアマキストでもないし、ユートピア主義者でもない。とても現実主義的な政治家、あるいは軍人であった。
 二人とも、1945年の日本の現実を見て、判断したのではないでしょうか。彼らが第九条を考えたのは、世界がまさに核の時代に入ったときであり、場所でした。この時代に国家の軍事力だけで国民の命を守ることは、もう不可能だということ。

 第九条が作った「平和常識」
 すでに話したように、第九条と前文が文字通りに実現されたことはないし、すぐに警察予備隊から自衛隊ができ、自衛隊の権限が少しずつ少しずつ拡大されて、ひじょうに矛盾した状況になってきたのは確かですが、でも第九条には、はっきりとした効果があったと思います。
 自衛隊があり、米軍基地があり、矛盾だらけの状況だけれども、そのなかにもう一つの事実があると思います。それは日本国憲法ができて以来の半世紀で、日本国政府の交戦権のもとで一人の人間も殺されたことがない、ということです。これはひじょうに大きな歴史的な事実だと思います。
 戦後半世紀の日本で、二世代、あるいは三世代、戦争を経験したことがない、戦争に出かけたことのない人々が育てられたわけです。つまり、戦後の日本社会のなかで、人を殺さないということが当たり前になった。人を殺さなければならない、と思っている人間は、この社会にはもうほとんどいない。これは私は前から日本の「平和常識」と呼んでいます。
 この半世紀の間アメリカ合衆国は次から次へと戦争をしている。朝鮮戦争、ベトナム戦争、グレナダ侵攻、パナマ侵略、湾岸戦争、いまだにイラクを空襲し続けているし、クリントン政権だけでも、ハイチ、ソマリア、アフガニスタン、イラク、スーダン、そしてコソヴォへと、あちこちに軍隊を送って人を殺している。
 アメリカ合衆国の、文化の中で、人を殺すことになるかもしれない、というのは当たり前の「常識」です。特に男が大人になるということは、「人を殺せる人間になる」と定義づけられてる。日本の「平和常識」に対して、いわばアメリカの「戦争常識」。
 核保有国では、大統領あるいは首相になろうと思ったら、敵国の町に核兵器を落とせる人間でなければその資格はありません。そういうことのできる人間でなければ、大統領や首相になれない。
 日本社会のなかでは、町に核兵器を落とせる人間というのはとにかく非常識で、どうかしていると感じられる。

 戦争は必ず帰ってくる
 アメリカ社会はもとからとても暴力的な社会だったけれども、特にベトナム戦争以来、さらに暴力的になって、沢山の人たちが殺されている。
アメリカでは誰も議論をしないが、その原因の一つが、毎年毎年、何十万の人たちが、殺人訓練を受けているということです。軍隊というひじょうに大きな殺人学校があるのです。普通、人は人を殺せないものです。抵抗があって、なかなかできないし、やりたくない。敵だといわれても、実際に人間の身体を狙って、撃てない人が多いのです。軍隊ではその抵抗をなくす訓練をするのです。殺せない人間から、殺せる人間への訓練です。
 それだけでなく、海外で実際に人を殺す経験をさせている。アメリカ合衆国は、海外ばかりで戦争しているから、本当の防衛戦争を一度もやったことがない。朝鮮半島とかベトナムや湾岸でなぜ戦争をしているか、いくら兵隊に説明しても、兵隊はなかなか信じない。ですからシニカルになるわけです。ニヒリズム・不道徳主義の教育と殺人の教育を同時にやっていることになる。
 そういう教育を受けた兵隊が帰ってきて、事実として、殺人犯のうち、ベトナム帰還兵がとても多い。
 日本社会では、世界のなかで統計的に殺人犯は少ない方だと思います。そこには日本の「平和常識」が働いているのではないか。日本國第九条には、そういう働きがあった。

 個人の正当防衛で軍事行動はできない
 第九条は日本国内にそういう効果があったし、実際日本政府は、直接戦争に関わらなかったけれども、同時に、日本国憲法第九条は20世紀の戦争に関する「常識」への批判でもあったし、冷戦、ポスト冷戦の世界に対する大きな提案にもなっていたはずだと思います。
 実際90年代に入ってから、第九条を世界に訴えるとか、世界に広げようという運動がたくさん始りました。
 その時代に、日本政府が第九条をなくす時期にきたと判断したのは、歴史の(皮肉というより)悲劇だと思います。懸命に自衛隊をPKO部隊として海外に派遣しようとする路線をとり、そして今度はPKOだけでなく、戦争に参加できるような自衛隊に変えようとしている。
 1999年5月24日、ガイドライン関連法案が可決されました。そのなかには日本を戦争のできる国家に変える意図がはっきりと読み取れるのです。もちろんこの新ガイドライン関連法、自衛隊法改正、周辺事態法によって憲法第九条がなくなったわけではない。微妙な区別ですが、第九条はまだあるのだけれども、政府はそれに従わない、守らないということをはっきり言った。そういう意味だと思います。
 周辺事態法の中身と、PKO協力法の中身を比較してみましょう。
PKO協力法第二十条の四:前三項の規定による小型武器または武器の使用に際しては刑法(中略)第三十六条又は第三十七条の規定に該当する場合を除いて、人に危害を与えてはならない。
 つまり武器の使用は刑法第三十六条、第三十七条に従うということになっている。その刑法第三十六条、第三十七条とは、
刑法第三十六条:【正当防衛】①急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
刑法第三十七条:【緊急避難】①自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を軽減し、又は免除することができる。
 個人の正当な防衛、あるいは緊急避難にかぎりマックス・ウェーバーが言っている暴力(ゲヴァルト)を使っても必ずしも違反にはならないという法律です。
 これはとても重要です。つまり軍隊、あるいはPKO活動にしても、そんな法的根拠だけで、仕事はできない。この個人の正当な防衛の権利に基づいて、軍事行動はできないのです。一つは、軍隊なら武器を使うか使わないかは、個人の選択、個人の責任に任せるはずがない。命令されたら撃つ、撃つなと命令されたら撃ってはいけない。それは司令官が決めることです。場合によっては司令官がいないときには、交戦規則と呼ばれる、いつ交戦できるかという規則があって、兵士はそれを教えられる。
 カンボジアに行った日本の自衛隊、つまりPKO協力法のなかの法的根拠しか持っていなかった日本の自衛隊があまり役に立たず、道路工事に使われ、早く返された理由はそれで分かるはずです。
 99年の新ガイドラインには、自衛隊に軍事行動ができるようにする意図があると思います。そういう意味で、新ガイドラインは明らかに憲法違反でもあるし、日米安全保障条約の枠を超えている、とたくさんの人が指摘しています。新ガイドラインの中身から考えれば、現在の安保条約ではなく、別の国際条約を結ぶべきだった。そのためには、少なくとも国会で十分審議してから決めるべきことであったはずですが、不思議な決まり方でした。

 後方支援は戦争だ
 新ガイドラインとそれを正当化する関連法は、PKO法といくつかのはっきりした違いがあります。
 まず、この法律に基づいて米軍の後方支援ができるとある。米軍の後方支援とPKO活動がどう違うかというと、当たり前のことだけれども、後方支援というのは戦争です。PKO活動と戦争は、現象として違うし、法的にも違います。
 ところが政府に言わせると、自衛隊は後方支援に参加したとしても非戦闘員である、日本は交戦国にはならないし、自衛隊は戦闘員にならない。なぜかというと、一つは、日本の法律がそう言っているから。もう一つは、交戦している地域からなるべく離れたところでしか活躍しないから、という言い方をしています。
 国際法によれば、たとえは武装化された貨物船であって、軍需物資を運んでいるならば、敵国はそれを攻撃して撃沈させる権利がある。後方支援をやっている自衛隊の場合は、相手に攻撃する権利があることが、さらにはっきりしている。

 交戦権は復活した
 とても不思議なことなのですが、今度の自衛隊法改定でもやはりPKO法と同じように、武器使用は刑法第三十六条、第三十七条の原理に従うとなっている。PKO活動に出かけたときも、それは成り立たなかった。PKO活動していた他の国の軍隊や司令官は、日本の自衛隊の扱いに困っていた。アメリカ軍の後方支援を想定した新ガイドラインのなかでは、なおさら不可能なのです。刑法第三十六条、第三十七条は個人の正当防衛です。
 もしも自衛隊が軍事行動をしなければどうにもならないような羽目になって、軍事行動を始めるとしたら、日本政府はどうするのでしょうか。第三十六条、第三十七条に従う義務を免除するしかないと思います。でも免除するのだったら、免除する政府の権利はどこにあるか。あるいはその権利は正確になんと呼ぶのだろうか。交戦権以外に呼び方はない。交戦権の復活です。
 何よりもそれを止めようとする大きな社会運動がどこにも見当たらない。

 「新九条」に従うか従わないか
 周辺事態法のなかには、政府が地方自治体あるいは民間組織を戦争の活動に動員してもいい、という条項があります。
(国以外の者による協力など)
第九条1関係行政機関の長が、法令及び基本計画に従い、地方公共団体の長に対し、その有する権限の行使について必要な協力を求めることができる。
2前項に定めるもののほか、関係行政機関の長は、法令及び基本計画に従い、国以外の者に対し、必要な協力を依頼することができる。
3政府は、前二項の規定により協力を求められたまたは協力を依頼された国以外の者が、その協力により損出を受けた場合には、その損出に関して、必要な財政上の措置を講ずるものとする。
 「憲法第九条」は政府に対する国民の命令だから、「憲法第九条」に基づいた反戦平和運動は、その命令に従うよう、政府に圧力をかけるプロテスト・ムーヴメントだった。ところが「周辺事態法第九条は」政府から国民に対する命令です。
 言い換えれば、政府が憲法第九条に従わないと決めたとしても、国民が憲法第九条に従わないかどうかは、また別の選択なのです。
 それは「抵抗」というテーマです。
 アメリカの歴史の中にも、つまりベトナム反戦争運動の歴史の中にも、「プロテストからレジスタンスへ」の変化です。プロテストというのは反対の意思を表現する運動です。反戦集会とかデモとかティーチインとか、それがいわゆるプロテストです。
 1960年代後半になると、抵抗(レジスタンス)の運動に変わった。たとえば徴兵拒否、あるいは軍隊からの脱走、最後の段階で軍のなかの抵抗があった。抵抗(レジスタンス)の段階に入って、反戦平和運動は初めて実力を持った大きな勢力になりました。政府も無視できないような、実力運動になった。
実力運動といっても「暴力」ではなく、これはあくまでも「抵抗」です。
 多くの自衛官は、戦争はしないという日本国憲法の契約をある意味信じたうえで自衛官になったと思います。自衛官の中からも、話が違うじゃないか、と言い出す人がいてもおかしくない。
 そういう意味で、逆説的なことですが、新ガイドライン関連法、特に周辺事態法によって、「憲法第九条」が日本国民の集団的な決断として復活する可能性をも与えてくれているのではないかと思います。


第三章 自然が残っていれば、まだ発展できる?

 私は経済発展を「イデオロギー」と呼んでいますが、これをイデオロギーではないと思う人が多いのではないでしょうか。経済発展は、現実主義の、現実的なものの考え方、というふうに思っている人が多いと思います。経済発展が必要であるということに関して、20世紀の主要なイデオロギーのあいだに、意見の違いはなかった。
 だから、経済発展イデオロギーは、思想としての覇権を握っていたということの実証でもあります。けれども、この経済発展のイデオロギーが21世紀も同じ迫力で覇権を握り続けるならば、とても大きな災難になるのは間違いありません。だから、このイデオロギーはいったい「何だった」のか、ということを振り返って考えなければならないと思います。

 発展イデオロギーが生まれた瞬間
 アメリカの大統領選挙に勝ったトルーマンが、1949年1月20日の就任演説で「アメリカには新しい政策がある」と発表しました。未開発の国々に対して技術的、経済的援助を行い、そして投資をして発展させる、そういう新しい政策でした。「未開発の国々(アンダーデヴェロップト・カントリーズ)」という用語や「近代化(モダナイゼーション)」という項目はこれ以降どんどん増えて、いつのまにか経済学、社会学の専門用語として定着していたわけです。
「発展(デヴェロップメント)」という言葉自体が、トルーマン演説によって変えられた、作り直された言葉なのです。
 もう一つ重要なのは、発展されるというか、発展させられる国は、アメリカ合衆国ではなく、別の国であるということです。
 英語の「発展する(デヴェロップ)」は本来自動詞なのです。他動詞ではない。だから言葉としてふさわしくないように聞こえます。

 「発展」は作り変えられた言葉
 「経済発展」という言葉のイデオロギー的な力がこの矛盾のなかにあると思います。
「発展する(デベロップメント)」という言葉、そして日本語の「成長」や「発展」という言葉の本来の意味を考えてみると役に立ちます。「経済発展」という全地球的なイデオロギーは、アメリカから日本に入ったものであって、思想と同時に、言葉の曖昧さも一緒に日本語の文脈に入ったからです。
 developという言葉を「オックスフォード英語辞典」で調べてみると、developの本来の反対語はenvelop、つまり「包む」ということです。日本語でいえば風呂敷とか紙で包むという意味です。Developというのはその反対の行為、「ほどく」とか「とく」、つまり紙や布に包まれた何かを出すという意味です。
 つまり、何か物に包まれた、紙や布に包まれたものが、だんだん出てくるような変化を指すわけです。
 日本語の辞書を調べると、「成長」というのは「育って大きくなること」。「発展」は「伸びて広がること」。ほとんど同じイメージだと思います。「開発」の方は「開き起こすこと」と広辞苑に書いてありますから、これは他動詞だと思います。「成長」と「発展」はdevelopとほとんど同じ基本的なイメージでしょう。
 あらゆる変化を「発展(デベロップメント)」と呼ぶことはできない。一種の構造に従うような変化を「発展(デベロップメント)」と呼ぶのが正しい言葉の使い方です。
 ヘーゲルはその哲学のなかで、ドイツ語Entwicklungという言葉を使い、歴史の移り変わりのなかで、人間の精神、あるいは歴史そのものの精神が、「発展」すると言いました。ヘーゲル哲学のなかの、「発展」という用語は、生き物の成長のような形の変化を指していて、他動詞ではなく、自動詞なのです。
 自国ではなく、世界に対する政策として「発展させる」という言葉を使い始めたのはアメリカのトルーマンが最初です。

 「未開発」は「野蛮人」の言い換え
 まず、西洋の経済制度に入っていない国はすべて「未開発(アンダーデベロップト)」と呼ぶ。「未開発(アンダーデベロップト)」という範疇のなかに、ヨーロッパ、アメリカ以外のあらゆる文化、あらゆる民族、あらゆる社会、あらゆる経済制度を入れる。
 「未開発(アンダーデベロップト)」の共通点はそれぞれが持っている特長ではなく、同じ物を持っていない、ヨーロッパ、アメリカの経済制度に入っていない、その「欠如」が共通点なのです。
 だから、言葉の歴史からいうと、「未開発」という言葉に「野蛮(バルバリアン)」が置き換わったと言える。「野蛮(バルバリアン)」が使えなくなって、新しい言葉が必要になった時期だったとも言えます。
 トルーマンが演説したのは、第二次世界大戦直後です。植民地を持ってはいけないということが、国連憲章にも書かれ、それが新しい常識になった。そして第二次世界大戦後元の帝国の一部の植民地に対し、基本的にアメリカは覇権を受け継いだ段階で、昔の植民地支配のやり方はもう使えない段階。そこで新しいやり方が必要になった。
三つ目は、ちょうど冷戦が始った時期でありました。第三世界の国々で、アメリカとソ連のどちらが力を持つかという激しい競争があった。
そしてもう一つ、この歴史的な瞬間の特徴は、戦争が終わった段階でアメリカは投資する場所を探していたということ。そこで「未開発」の国を、投資すればちゃんと返ってくるような経済制度に作り直せば、とても役に立つことになります。

そして搾取は見えなくなった
グローバリゼーションというのは新しい現象ではなく、植民地主義も、帝国主義もグローバリゼーションだった。これは搾取であるということを、みんなが意識していた。
 これを「発展(デベロップメント)」と呼べば、それはまるであたかも、それぞれの文化、文明、社会のなかに隠されていた可能性が解放されるかのようなイメージになる。実際にやっていることは、植民地時代とそれほど変わらないにもかかわらず、外から資本が入って、伝統的な文化を壊し、搾取する。
トルーマンの演説の前と後で、学問においても、ものすごく大きな思想の転換、パラダイム転換がありました。アメリカで出版された『社会科学百科事典』
で比べると、1933年の百科事典には、「未開発(アンダーデヴェロップト)」とか「近代化(モダナイゼーション)」という言葉はまったく存在しない。それらの言葉に該当するのは、「遅れた国(バックワード・カントリー)」という言葉だけです。Backwardというのは「裏返し」というような意味です。今の英和辞典では「未開発」というふうに訳されているかもしれないけれど、本来この言葉には「開発」とか「発展」という意味は入っていませんでした。
 そして「遅れた国(バックワード・カントリー)」の定義を、税金制度を持っていない、労働倫理も持っていない、つまり根本的にその社会を変えなければ、利益的に搾取不可能な国である。
 68年の事典では「遅れた国(バックワード・カントリー)」という言葉は消えています。第三世界の国々の経済成長に関して、その中に搾取が隠されているのだということを匂わせる文章はどこにもなくなってしまいます。

 歴史から消えた「強制労働」
 33年の百科事典には「強制労働」という項目があります。ほとんどの植民地において、最初のインフラストラクチャーは強制労働でできたのです。
そして強制労働の種類として、一つは直積的強制労働、つまり奴隷制。二つ目には間接的強制労働もある、植民地に税金制を設ける、というやり方です。税金を払うために工場で働かないと手に入らない。三つ目が、自給自足の文化があった場合のやり方。森林を伐採して、何かのプランテーションを作る。森林がなくなってしまえば、プランテーションの労働者になるしかない。これも間接的強制労働である。
 経済発展イデオロギーの文脈で作られた68年の百科事典では「強制労働」の項目がなくなっている。
今の世界がどういう過程でできてきたかを知らないと、今の世界は何なのかということも分からない。それが、発展経済学の理論に合わないからという理由で、消えたのです。

 「発展」という言葉の不思議な力
 この経済発展のイデオロギーの力というのはすさまじい。その枠の中、その文脈のなかで現在の世界を見ると、まったく別のものが見えてくる。あるいは、世界を見ても、何が起こっているかまったく別のものが見えてくる。あるいは、世界を見ても、何が起こっているのかまったく認識できない。そういう力を持っている。
 発展という言葉のそういう効果、力を理解するために「遡及(そきゅう)的目的論(レトロアクティブ・テリオロジー)という奇妙な言葉を思いつきました。
 「遡及(そきゅう)的目的論」の分かりやすい例に、「鉱石」という言葉があります。石の「目的」は金属を人間に提供することである、というように勝手に目的を遡って植えつけるのが、「遡及(そきゅう)的目的論」です。「未開発の国」という言葉も同じです。
 「発展途上国」あるいは「未開発の国」という「言葉は「鉱石」と同じように、外から目的を植えつけている。そこに住んでいる人の立場がどうであれ、「目的」を達成し始めると、これは発展だということができる。そういう不思議な言葉になっているのです。

 スラムは近代建築だ
 この発展イデオロギーが今の世界をかなり神秘化していることに気づくはずです。
 一つは、この世界経済は一つになっていることを真剣に信じてみることが大事だと思います。グローバルライゼーションは、植民地時代に始って、それがすっと進行しているのですが、今やこの資本主義、産業経済システムは地球の隅々まで根付いた。私たちが経済発展と呼んでいること、それは地球上のすべての人間、すべての自然を産業経済システムのなかに取り入れることなのです。
 今の世界は立派に「発展された」世界であると考えるべきだと思います。スラムというのは経済発展の結果として現れた建築スタイルなのです。経済発展とは「スラムの世界」を「高層ビルの世界」へと少しずつ変身させる過程だというのは錯覚であって、ごまかしです。
 第三世界あるいは南の国は「発展されて」いないのではないのです。「発展されて」そうなっている。発展が足りないから貧乏なのではなくて、発展されたから貧乏生活が以前と違った貧乏生活になったと考えたほうが正しい。貧乏であるなしにかかわらず、地球上のあらゆる人が世界経済システムに完璧に組み込まれている、そういう意味です。

 「みんながいつか発展する」という約束
 経済発展は、南北問題を解決するのではなく、原因の一つなのです。『発展白書(デヴェロップメント・レポート)』という、世界の成長がどの程度進んでいるかというレポートを世界銀行が毎年出していますが、マイナス成長になっている国がかなり多い。
 それは間違った成長で「発展(デヴェロップメント)」を直せば、みんな豊かになるだろうと言う人がいるかもしれませんが、構造的に、原則的に、それは不可能だと私は思います。一つは、みんなが経済発展すると地球がもたないということです。

 みんなが金持ち(リッチ)になることはできない
 もう一つ、経済発展の思想のなかには、ある種の豊かさのイメージが組み込まれていると思います。『オックスフォード英語辞典で知ったことですが、richというのはラテン語のrex、つまり「国王」からきた言葉です。だからrichのもともとの意味は経済的な力ではなく、権力なのです。国王が持っているような力(パワー)がリッチのもとの意味だった。それが数百年たって経済力がrichの意味になったわけです。他人の労働力を支配できるということが、金持ち(リッチ)の本質です。自分が金持ち(リッチ)になろうとすれば、自分がお金を集めるか、周りの人たちを貧乏にするかですが、どちらも結果は同じです。
 私はそれが唯一の豊かさだとは思いません。人間が共有できるような、一緒に、ともに生きるような豊かさがあると思います。

 貧困は再生産される
 貧困にもいくつかの種類があると思います。
 一つは伝統的な貧困。これは自給自足の社会を指します。二つ目は、世界銀行が呼ぶところの「絶対貧困」。これは食べ物が足りなくて、服が足りなく、健康な生活ができない状態。三つ目は、金持ち(リッチ)の前提になっている貧乏(プアー)。金持ち(リッチ)に馬鹿にされる、そういう社会関係が一番辛いわけです。馬鹿にされても反抗できない、その無力(パワーレスネス)さがこの種の貧困の特徴です。四つ目は、技術発展によって新しいニーズが作られ、そこから新しい種類の貧困が生まれるのです。イリイチの言葉を借りれば、「根源的独占」から生まれた貧困。何か新しい技術ができると最初は金持ちだけが買う。それがだんだん、あればいい、ではなく、なければ困る、というふうになってくる。買えない人たちは、それを買うお金がないから貧乏、ということになる。この貧困の特徴は、経済発展や技術発展によって解消されるのではなく、経済発展と技術発展によって再生産されるところにあります。これは技術発展によってたえず作り続けられる貧困なのです。

 経済発展で貧困は解消しない
 20世紀の経済発展は、大雑把に言うと、この四種類の貧困のうちの一つ目を、三つ目と四つ目に作り直すという過程です。経済発展によって貧富の差がなくなるという幻想は、ロサンゼルスを見れば間違いだと分かります。貧富の差というのは、経済発展によって解消するものではない。貧富の差は正義の問題だと思います。経済学で考えれば、貧富の差がいけないという理由は何もない。
 「正義」というのは、政治の用語です。貧富の差は経済活動で直るものではない。貧富の差を直そうと思えば、政治活動、つまり、議論して政策を決め、それをなくすように社会や経済の構造を変えなければならない。

第四章 ゼロ成長を歓迎する

ローマ・クラブの『成長の限界』という本が1972年に出ました。これは世界の経済成長をそろそろ止めなければならないという研究でした。
経済成長が地球を破壊する原因になっているということは、その頃からずっと言われ続けていることであって、もうすでに誰もが分かっていることのはずです。知識として、経済成長はもうそろそろ限界にきている、それを止めなければということは、みんな知っているはずです。知っているけれども、決定的な行動に移すことは、なぜかとても難しい。
 私たちは、燃えるゴミと燃やしてはいけないゴミ、有害ゴミ、ビン、カンなどに、毎日ゴミを分別して出したりしています。有機農業をやるか、あるいは、その有機農業でできた野菜や果物を買ったりはします。
 けれども基本的には、消費社会、消費文化を続けているわけです。ほとんどの経済学者や政治家、ビジネスマンは、これからも経済成長を続けるという立場にたっている。そしてこの立場は、相変わらず「現実主義」と言われているわけです。
 ところが、数年前から日本の成長率がゼロになった。経済学者や政治家たちはこれをなんとか直して、まだ経済成長を続けるべきだと考えて、いろいろな政策があれこれと議論されている。最近はちょっとプラスになったが、まだゼロに近い状態が続いています。
 今の日本のこの状況、ゼロ成長の状況は「不景気」とか「不況」であって、大問題といわれていますが、これはとても有意義な「機会(チャンス)」であるというふうに考えた方がいいのではないかと思います。これからも経済成長を続けて豊かな社会を求めるのではなく、経済成長なしで、ゼロ成長のままどうやって豊かな社会を作るか、という別の問題提起、別の問題の設定に変えるのです。

 「パイが大きくなればピースも大きくなる」の嘘
 「ゼロ成長歓迎」というのは、成長がゼロになればそれが解決だと言う意味ではなく、ゼロになったということを歴史的なきっかけにしたらどうか、と言う意味です。貧困者が増えることを止める努力を諦めると言う意味ではまったくありません。それは経済的な解決ではなく、政治的な解決です。つまり成長ではなくて、分配です。正当な、正義に基づいた分配という解決を求める。
 豊かさのパイを再配分するのではなく、パイそのものを大きくすれば、小さなピースもそれなりに大きくなるのだから、みんな満足する。これはアメリカ政府が陳腐になるくらい何度も繰り返し言ってきたことです。
 ところが、問題は少なくとも二つあります。まず、パイは大きくなるかもしれないけれど、地球、つまり自然環境は大きくなりません。だから、パイを大きくし続けるために経済成長をいつまでも続けていくわけにはいかない。
 そして世界経済システムそのものの構造から考えれば、パイの大きな部分はどうして大きいのかというと、もちろん小さいところからとっているから大きいのです。だから、経済成長によって小さなパイのピースも大きくなるというのは嘘です。実際に「マイナス成長」の国があるわけです。
 現在、世界の人口の20%が、世界の資源の80%を消費している。

 豊かさの質を変える
 ゼロ成長を歓迎するということは、相対的に貧乏な人たちやホームレスの人たち、失業した人たちを無視するということではありません。この政策はむしろ、そういう人たちの安全を保障する仕組み、すなわち安全(セーフティ)ネットをつくることを目指します。今の競争社会を、相互扶助というか、人々が互いに協力し合える社会に切り換えることを意味しています。経済成長よりもはるかに面白いプロジェクトを積極的に取り上げることを意味します。物質的な豊かさではなく、本当の意味での豊かさを求める社会、そして正義に基づいた社会をどうやって作るか。

 「対抗発展」とは何か
 そういう社会を求める過程を、私は暫定的に「対抗発展(カウンター・デヴェロップメント)」と呼んでみたいと思います。経済発展ではなく人中心の発展です。
 「対抗発展」と言う言葉でまずいいたいことは、今までの「発展」の意味、つまり経済成長を否定することです。一つには、対抗発展は「減らす発展」です。エネルギー消費を減らすこと。それぞれの個人が経済活動に使っている時間を減らすこと。値段の付いたものを減らすこと。そして二つ目の目標は、経済以外のものを発展させることです。経済以外の価値、経済活動以外の人間の活動、市場以外のあらゆる楽しみ、行動、文化、そういうものを発展させるという意味です。経済用語に言い換えると、交換価値の高いものを減らして、使用価値の高いものを増やす過程、ということになります。
 環境問題(もちろん貧富の差も)を起こしているのは「南の国」ではなく「北の国」です。過剰発展、過剰生産をしている産業国です。

 「対抗発展」は快楽主義である
 それぞれの国がさらに経済成長を続けたとしても、その社会の安全保障や、本当の意味での豊かさ、快楽、幸福、幸せの量とはあまり関係がないということが見えてくるはずです。
 確かに過剰成長の社会には、快楽を感じるような技術や機械、エンターテイメントといったものがとても進んでいるのですが、逆にそういう機械や技術に頼らずに快楽を感じる能力、楽しくする能力が、社会として、あるいは一人ひとりの個人も鈍くなっているように思う。消費による快楽ではなく、本来の快楽主義。われわれ人間の快楽、楽しさ、幸福、幸せを感じる能力、それらを発展させるのです。

 仕事と消費、二つの中毒
 従来の経済発展のものの考え方から、私たちは二つの大きな影響を受けています。一つは私たち人間を「人材」にするということです。人が人材になるということは、人間を生産の手段にするということです。
 もう一つは、消費者。つまり生産の手段としての人間に対して、消費の手段としての人間です。別な言い方でいうと私たちは、二つの中毒から楽しさを感じることを学んだ。一つは仕事中毒。人事としての人間が仕事中毒になって一生懸命仕事をすれば、一種の楽しさを感じるようになる。もう一つは消費中毒。お金を出して物を買えば、やがてお金を払うこと自体が楽しくなる。どちらにしても、お金の値段が付いていないと、楽しくない。お金を得る活動が楽しい。お金を払う活動も楽しい。お金の値段が付いていなければ、楽しくない。それが経済人間です。経済人間は自分の存在自体が、経済の歯車になっている。
 「対抗発展」の目的の一つは、そういう「人材」から普通の「人間」に戻ることです。「対抗発展」は、経済は成長しなくてもいい、その代わりに意味のない仕事、あるいは世界を悪くするような仕事、金以外に何も価値のあるものが出てこないような仕事を少しずつ減らしていくという過程です。

 何が進歩するか?
 この「対抗発展」は逆戻りとか過去へ戻るということとはまったく無縁です。資本主義、経済発展イデオロギーのなかでは、経済成長こそが進歩だという考えが定着しました。だからもし「対抗発展」の過程に切り換えられれば、進歩する対象は変わるわけです。進歩によって変わるのは物ではなく、人間です。
社会や文化が変われば、それが進歩であるということになります。
 物を少しずつ減らして、その代わり、物が無くても平気な人間になる。それは人間の能力の発展ということになります。生きていることを楽しむ能力を身につけるということです。

 「自転車より車が新しい」の幻想
 近代科学で重要な基準の一つは能率ですが、あらゆる陸上の乗り物のうちでもっとも効率がいいのは自転車です。つまり一人の人間を1キロメートル動かすのにどれだけのエネルギー(何カロリー)が消費されるか、という測り方です。世界の多くの政府がものすごく大きなお金(税金)と労力を投じて、車に有利な条件を作っています。道路を建設したり、交通信号を立てたり、歩道橋を作ったり、自動車産業がどれだけ政府からの援助を受けているかが良く分かります。

 24時間働くべきか?
 ベンジャミン・フランクリンは「時は金なり(タイム・イズ・マネー)」といいました。極端な言い方をすれば、働いていない、金儲けをしていない時間はすべて無駄な時間ということになる。経済発展の論理は「時は金」の論理なのですが、対抗発展の論理は、「金は時間」です。豊かさは余暇に替えることができる。
 社会の豊かさの基準を、お金から時間(余暇)へ切り換えるということです。「金は時間」といったときのその「時間」は、もっと生産するための時間ではなくて、管理されていない時間、自由時間、人が個人として本当にやりたいことをやる時間です。

 私たちは転換期の直前にいる
 私たちは今、来るべきパラダイム転換の前の段階にいます。いわゆるオルタナティヴ経済学が常識になって主流になる直前の段階です。
 これ2000年3月10日の『ジャパン・タイムズ』に農林省が日本の食糧自給率を2010年までに40%に引き上げる計画を立てている。その後50%の目標を立てるつもりであると書いてある。食糧をを延々と海外から輸入するということは、非常識な、危険なことであるということがやっと政府にも、少なくとも農林省(当時)には分かった。
 あくる日の11日付けの新聞には、日本政府は2010年までに16基から20基の原発を作る計画を立てていましたが、それを見直すと発表した。やはり原発が危ないということは現実であり、事実だった。下からの運動をやる意味がある、ずっとやっていればそのうち効果はあるということです。


第五章 無力感を感じるなら、民主主義ではない

定期的に選挙がある、複数の政党がある、憲法がある。そして、その憲法には基本的人権の保障が書いてある。刑法、民法は文章になって公開されている。
ちゃんとした裁判がある。裁判の判決が出ないと処罰されない。そういった条件がそれらの国にそろっているので民主主義の国と言われる。
 ところが、特に先進工業国のなかで、無力感を感じている人が多いのではないでしょうか。
 ギリシャ語のデモスは民衆、あるいは人民という意味、クラティアというのはいわば力(パワー)です。クラティアというのは人が集まった結果として出てくる力(パワー)なのです。
 つまり民主主義(デモクラシー)の本来の意味は、民衆、あるいは人民に力があるということです。クラティア、民主主義(デモクラシー)の力(パワー)というのは、共同生活に関する一番重要な決定、あるいは選択をみんなが議論して決める、そういう力です。つまりその社会の基本的な構造、一番基本的な傾向を国民が変えられないのであれば、それは民主主義ではない。

 もっとも民主主義的な選挙はくじ引き
 国家には、三つの身体がある。一つは政治的な身体。もう一つは軍事的な身体、さらにもう一つは経済的な身体。民主主義国と言われている国にしても、そう言われているのは政治的な身体についてだけであって、軍事的な身体と経済的な身体は、明らかに非民主的、反民主的であると思います。
 古代ギリシアでは、選挙で代表を選ぶというのは民主主義ではなかった。選挙は貴族制だとアリストテレスは言っています。なぜかというと、選挙をすれば、一番有名な人、一番お金のある人、一番社会で目立つ人が選ばれるのであって、それは貴族だからです。
 民主主義でもし代表を選ぶ、民主的に代表を選ぶとしたら、それはくじで選ぶべきである。古代ギリシアではくじで選んでいました。市民なら誰でも選ばれる可能性がある。市民なら全員が、代表になるかもしれないという、心の準備を持たなければならない。どの市民を選んでも代表を務められる、それだけ共同体に対する責任感があるという前提なのです。また選ばれた人は、選ばれたということを威張る理由がないわけです。代表を選ぶとすればくじ引きで選び、あるいは市民が直接政治の選択に参加する、ということが民主主義だったわけです。

 いつ選挙制が民主主義と呼ばれるようになったか?
 アメリカ合衆国憲法が制定された当時、民主主義者は中央集権化はよくないと反対運動(反連邦主義運動)を起こしたが、憲法草案作成の中心人物のエリート勢力には勝てませんでした。こうして民主主義は反対派の思想だった。
 1830年代になりアメリカ合衆国全体を民主国家と呼び始めた。制度が変わったのでも憲法が変わったのでもなく、民主主義(デモクラシー)の定義が変わったのです。民主主義の理念は、反対派の理念から国家イデオロギーに変わったのです。
 最初に民主主義だとは誰も言わなかったような政治形態が、しだいに民主主義に対する考え方が変わり、平等に対する考え方も変わることで、いつしか民主主義であると言われるようになった。
 人民が実際に権力を持っているかどうか、ということはその定義には入っていないのです。

 軍隊があるかぎり民主主義国家とは呼べない
 国家には、軍事的な身体がある。軍事行動が民主的でないということは明らかだと思います。軍事組織自体が、反民主的な組織であるわけです。
軍事組織は基本的に、政治用語で言えば独裁です。民主主義と言われる国のなかにも、いわば相対的に自由な領域と、全体主義的な領域の両方がある。
軍隊組織をなくさないかぎり、国家が本当の意味で民主主義的であるとは、言いにくいのです。戦争になれば軍隊組織が強くなって一般社会に対する影響も強くなる。つまり日常生活が軍事化される。だから、戦争の可能性、そして軍隊組織の存在はいつも民主主義の思想と民主主義の精神の足を引っ張ることになるのです。

 暇がなければ民主主義は成り立たない
 経済の身体、経済の組織にも、とてもは反民主主義的な側面があると思います。まず一つは経済活動の中心になっている株式会社(コーポレーション)の組織です。政府の官僚制度もそうですが、会社の組織というのは基本的に軍隊組織の真似だと思います。どちらも軍隊組織の基本的な論理を使っているので、とても似ている。ピラミッド組織としてのヒエラルキーがあり、一番上に決定権のある人たちがいて、命令は上から下へ降りてくる。下の人は上の人に対して尊敬をこめた言葉を使わなければならないし、上の人が下の人に対して命令をする権利を持っている。
 会社も軍隊と同じように少なくとも勤務時間のなかには、民主主義の論理、自由の論理、平等の論理は当てはまりません。
これもアリストテレスが書いたんですが、民主主義の必要条件は社会に余暇、自由時間があるということです。余暇がなければ、民主主義は成り立たないと。
 人が集まって議論したり、話し合ったり、政治に参加するには時間がかかる。そういう暇がなければ、政治はできないのです。政治以外にも、人は余暇で文化を作ったり、芸術を作ったり、哲学をしたりする、とアリストテレスは言いました。その市民の余暇のために奴隷制が必要であると続きます。
奴隷の定義は余暇のない人間である。と考えれば、われわれの社会はどうだろうか、ということになる。勤務時間以外にほとんど暇がないという状態が日常であるとしたら、私たちのほとんどは、アリストテレスのいう奴隷の範疇に入っているということになるのではないでしょうか。
 民主主義にはやはり余暇が必要なのです。具体的な民主主義、つまり、人が本当に政治の議論、政治の選択に参加し、政治権力そのものを担おうと思えば、たまの日曜日の活動や議論くらいでは足りません。そういう意味で、国家の経済的な身体は民主主義の足を引っ張っているのです。

 誰もこんなに働きたくなかった
 ヨーロッパの場合、産業化の一番最初の段階で、労働者はどこからきたかというと、それは囲い込み(エレクロージャ)運動からです。つまり、農産地を追い出され街に流れてきた、ほかに仕事のない階層から最初のプロレタリアが生まれた。
 フランス語に「サボタージュ」という言葉があります。もともとはフランス語の「木靴(サボー)」からきた言葉です。機械の歯車に木靴を入れると機械が壊れる、ということで、サボタージュという言葉ができた。ヨーロッパでは長い間、賃金労働は侮辱でした。自分の意思でやろうとした仕事ではなく、ただお金をもらうための労働というのは、非常に侮辱的なことであるという価値観がずっと続いてきました。「賃金奴隷」という言葉は、20世紀の前半まで残っていました。
 どこで、誰がみずからこの長時間の労働制度を選んだか。誰も選んでない。人類の歴史を広く考え直してみると、管理された10時間あるいは12時間を毎日毎日、朝から晩まで働き続けるということは、人間にとってとても不自然な、無理をした生き方なのです。工場でも、事務所でも、みずから、自分からやりたいことをやっているのではなくて、上からの命令に従ってやっている。面白いか面白くないか、ということで決めるのではなく、とにかく会社が決めたことをやる。基本的にはお金がないと生活ができないということで、仕方なくやっているわけです。しかも現在のあり方が当然ではないかというふうに考える、つまりそれは「常識」になったわけです。

 経済を民主化せよ
 社会主義の主張は、資本主義、つまりこの労働の組織化、労働者がプロレタリア階級になっているというこの状態は非民主的であるということです。社会主義は経済の民主化を目的とする、という言い方でした。あるいは、労働現場、仕事場の民主化。労働者に権力を持たせる、それが社会主義の約束だった。
 マルクスも書いてますが、フランス革命によって政治形態は民主化されたけれども、経済の形態はまだ民主化されていない。それが社会主義の仕事であるという考え方です。
 ソ連と東ヨーロッパの社会主義は解決にならなかったということは、したがって資本主義の経済制度は民主的である、という意味ではない。それが非民主的であるという問題はまだ残っているのです。
 経済制度を民主化する過程の第一歩は、経済的な決定であると言われている政策決定の多くが、実は経済的な決定ではなく政治的な決定であると認識することです。この決定この政策は政治的である言った場合、つまりそれは専門家やエキスパートが決めることではなくて、普通の市民、人民が選択する、決定する権利があるという意味です。

 私たちには力がある
 民主主義の本来の意味は人民(ピープル)に力(パワー)があるということです。ときどき歴史のなかで人民は立ち上がって、実際に権力を握ることがあります。
運動を起こして、人々が実際に歴史の方向性を変える、そういうことがある。フィリピンのピープルズ・パワー運動とか、ポーランドの「連帯」とか、日本の場合は60年安保闘争とか、そういうことがれきしのなかにはあった。
 もう一つの側面は、どんな制度のなかにいても、潜在的な力(パワー)は人民(ピープル)にあるということです。客観的な事実として、あらゆる権力が、政治権力も経済権力も、どこから来るかというと、普通の人々から発生している。経済的に言うと、これはマルクスの基本的な洞察だと思いますが、すべての経済的な力(パワー)、つまり富は労働者が作っている。労働者は労働によって、資本家の力、資本家の資本そのものを生産している。労働者が働いて資本を作るのです。
だから労働者は、朝から晩まで働くことで、自分を管理し、自分を搾取し、自分を抑圧する力を自分で作っているという、ひじょうに逆説的な状況にいることになる。それが「疎外された労働」です。
 政治権力も同じで、政府の官僚の命令に従う人がいなければ官僚の力もないし、政治家の力は票をもらわなければ成り立たない。政府自体、これが政府であると信じる人がたくさんいなければ、政府の権力も成り立たないのです。だからそういう権力がすべて基本的に普通の人々から生まれてくるのだということは、理念ではなく、希望でもなく、客観的な事実なのです。

 サヴァイヴァルとしての活動
 それぞれの個人の潜在的力(パワー)を経済的役割、政治的役割、文化的役割の社会的役割を考えると、経済的役割としては、まず私たちは労働者としての役割を持っています。職場内言論の自由を獲得して、大きな声であらゆること-労働条件、公害問題、周辺事態法、神の国発言、憲法調査会、その会社の生産方針と社員に対する扱い-などについて話せるようになったら(つまり、当たり前の話ができるようになったら)、どれだけ社会が変わるか、ということも分かるでしょう。
 そしてもう一つの私たちの経済的役割が消費者です。自分の良心や生き方に合わないことをやっている会社(低賃金労働者を搾取する、環境破壊をする、兵器を生産する、女性を差別する、など)の商品を買わないのは当然だ、という感性が常識になったら、すごく大きな力になるでしょう。「テレビのコマーシャルに出てくる商品はまず買わない」という大まかなルールに従えば、ほとんど間違いはないでしょう。
 今、オルタナティヴ経済に変えようとする運動が広がっています。日本でも、企業を通さずに直接農家から食料を買うシステムや、正当な値段で南の国から輸入する貿易会社があります。消費者としての自分がこうした別の将来を作ろうとしている活動に関わることは、社会変革にも自分の生き方の変革にもつながります。
 そして政治的な役割ですが、すべての政府の政治権力は民衆の支持(積極的であれ消極的であれ)から生まれるのが事実ですが、日本政府の場合、世論とかなり違った政策を強引に決めることが多い(新ガイドライン関連法がその顕著な例ですが)。政府の政策が民衆の信念を正直に代表するものになったら、それだけで日本の政治はかなり変わるでしょう。
 「世論」というのはテレビのニュース・キャスターやタレントが作るものではなく、民衆の構成員である個人が作るものだということです。
 国家の暴力(戦争)や環境問題など、21世紀はそういう政治活動への参加が当たり前にならなければ解決できないような問題がたくさんあります。だから、参加することが当たり前になる市民社会を形成しなければならないのであって、そのためには、まずは自分自身が変わる「民主化」が必要なのです。
 最後に個人の文化的な役割ですが、経済価値や政治権力と同じように、文化は、文化庁や一握りの文化人が作るものではなく、民衆が作るものである、ということです。今の主流の文化は完全にこの政治経済システムに組み込まれたものです。文化によって人間社会にあるさまざまな物の「価値」が決まりますが、今の消費文化のなかでは、お金の価値(つまり値段)がついていないものには価値がない、それどころか、存在感もないことになっています。今後、経済の交換価値(値段)以外の、本来の物の価値を評価できる感性・美意識を中心とする文化が復活すれば、市場経済が持つ私たちに対する支配力はかなり弱まるでしょう。
 こういう当たり前の、常識的なことは依然として、社会の中心からかなり排除されています。常識なのだけれども、いわば「裏の常識」「周辺的常識」「アウトサイダーの常識」になってしまっている。
 しかし、これからの政治、経済、文化を変える活動は、何らかのイデオロギーや主義主張、特別な信仰によるものでなく、(地球と人間社会)サヴァイヴァルの必要条件なのだということを、冷徹な現実主義者は理解しなければならない。その理解が広がれば、この「裏の常識」は「表の常識」、主流の常識になってくるでしょう。

第六章 変えるものとしての現実

もう一度、私たちはどんな状況にいるのか、どんな現実を生きているのかという問いに戻りたいと思います。
* 死ぬ人間
「安全保障」といえば「日米安全保障条約」をまず思い出します。安全保障=軍基地というのが主流のイメージです。私たちの安全保障は国家が独占している「正当な暴力」に頼るのが当たり前というのが相変わらず世界の常識であって、どうもそれが日本の常識としても復活しそうです。20世紀の百年間で2億人の人間、それもおもに自国民を殺したのがその国家であるにもかかわらず。
一方、世界で毎日餓死している人間の数は、、ノーベル経済学賞をとったアマルティア・センとジャン・ドレーズが書いた『飢餓』という本によると、ジャンボジェット300機の乗客とほぼ同じ数だそうです。政治家や発展経済学者はこの問題の解決として、経済発展しかないと言う。この状況こそが半世紀続いてきた強引な経済発展政策によってできた世界経済システムの現実である。
*死ぬ種
生物学者が記録していない種が次から次へと絶滅しつつある。多くの種が記録されないまま絶滅してしまえば、科学者がこの地球上の生物の模様を全面的に把握できなくなる、そのチャンスを失ってしまうことを心配している。
*死ぬ言語
ウォルフガング・ザックスが編集した『脱「開発」の時代』によると、現在世界には5100くらいの言語がある。ところが2世代先まで残っているのはそのうちたぶん100くらいだろうと地理学者が予測している。
一つの言語は、たんにコミュニケーションの手段であるだけではありません。そのなかには、いろいろな人間の経験とか、気持ちとか、歴史とか、美意識とか、ものの考え方や世界観が組み込まれています。一つの言語は人類の文化、文明の一部であって、人間のさまざさな可能性のなかの一つがそこに実現されている。
*死ぬ生物圏
生物圏という言葉がありますが、それは生物が生息可能な領域、つまりこの惑星の表面を指しています。私たちは、それが宇宙のなかで唯一、命の生息が可能な場所であると知りながら、このきわめて限られた生物圏を少しずつ破壊しています。

 間に合うか、間に合わないか?
 原発があれば、いつかまた放射能が漏れる、事故は必ず起こるからです。人が忘れたとしても、とにかく問題は続きます。
 反原発運動は、ユートピア主義とか理想主義とか、何かのイデオロギーに基づいた運動ではなく、現実に存在する問題に基づいた運動です。
 実際に放射能はこれまで何度も漏れたし、故障しない機械などありえないというごく当たり前のことを思い出せば、これからも漏れるということは分かります。ですから、反原発運動は残るかなくなるかではなく、間に合うか間に合わないか、が問題なのです。
 冷戦が終わった今、戦争を求めるには相変わらず何らかのイデオロギーが必要ですけれども、平和を求めるのにそれはまったく必要ありません。それはごく当たり前な要求のはずです。

 常識は必ず変わる
 今常識とされているこの「現実主義」、タイタニックの論理が変わるかどうか(そしてその変化が間に合うかどうか)ということでもあります。
タイタニック現実主義のような考え方が「常識になった」ということを、政治学の用語では「覇権をとった」とも言います。「一つの考え方」ではなく、客観的、普遍的な現実のように見えてくる。議論や討論の対象となる必要のない、実証済の、あるいは実証以前の確実なものだ、という位置に置かれる。覇権的な考えにみんなが説得されたというよりも、それを疑うことさえできない、という状態になる。それが排他的真理、つまり「常識」になって、それ以外の考え方は「非常識」とされる。極端な場合には異端とか危険思想と呼ばれる。
 もちろん、派遣を取って「常識」になることと、その考え方が正しいかどうかは別の問題です。
 この過程は1945年までは「帝国主義」と呼ばれ、1946年あたりから「経済発展」と呼ばれ、現在では「グローバライゼーション」と呼ばれている。どれもが、人間の小さな力を超えるような、止めようと思っても止まらないような、歴史の大きな「流れ」、あるいは「雪崩」のように見えます。「たくさんの人が勝手にやっているにすぎない」という本質はなかなか見えてきません。それが「覇権」の不思議な力です。
 けれども、覇権を握った「常識」はこれまでも変わってきた。だから、経済発展の常識も暴力国家の常識も変わる。

 放射能つきのユートピア
 マルクス主義のなかで唯物論はどういう意味だったか。下部構造(生産の手段、生産の諸関係)は上部構造(政治、文化、イデオロギー)を決定する。
下部構造が変われば、どうしても上部構造はその影響を受ける、という考え方です。マルクスが言っている下部構造は経済制度ですが、経済精度の外にやはり自然環境があるわけです。
 経済制度、つまり生産の手段、生産の諸関係は、絶対的、根源的に環境に従属しています。環境が変われば経済制度の下部構造は変わるはずです。環境が破壊されれば経済制度も破壊される。人間がいくら自然環境を無視しようと思っても、その影響から逃れることはできない。そうなれば、いくら極端に無関心になって現実逃避をしても、人間の生き方を変えなくてはいけなくなる。その変化は必ず起こると思います。
 国家の暴力の歴史を冷静に見れば、なるほどそうだったのかと思って、もう国家に武器を渡したくなくなるでしょう。世界経済システムが引き起こした災害の記録(飢餓、文化や自然の破壊、貧富の再生産)を冷静に見れば、なるほどそうだったのかと思って、経済発展政策の放棄を求めるようになるでしょう。
それは普通の人間が持つ常識による反応であって、それを説明するのに何も決定論のような神秘的な言葉はいらないはずです。
 前に話したように、この変化が遅すぎて、大きな災難とともに訪れるのか、それとも積極的、意図的な改革によってなされ、それを回避できるのか、間に合うか間に合わないか、が重要です。
 ただ仮に間に合ったとしても、人間が危機を意識し、産業資本主義、世界経済システムを変えることに成功したとしても、それは「放射能つきのユートピア」しか成り立たないのです。
 しかし、この途中まで破壊された人間の文化、途中まで破壊された自然界にも、この破壊さえ止まれば希望は残っています。その希望は、文化と自然の両者が持つ大きな回復力にあります。
 「植民地主義」→「帝国主義」→「経済発展論」→「グローバライゼーション」と名前を変えてきた弾圧の歴史のなかでも、人間の文化にはそれだけ粘り強い発展があった。
 そういう意味で、傷だらけの「放射能つきユートピア」ではあっても、希望はあります。しかしこれはすべて、もし間に合えばの話です。
 HOME 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。